【現代語訳】

 日が昇って、人びとが参集して来るので、あまり長居するのも何かわけがありげに思われそうなので、お出になろうとして、
「どこでも、御簾の外は馴れておりませんので、体裁の悪い気がしまして。いずれまた、このようにお伺いしましょう」と言ってお立ちになった。宮が、

「どうして不在の折に来たのだろう」ときっと想像するにちがいないご性質なのもやっかいなので、侍所の別当である右京大夫を呼んで、
「昨夜退出あそばしたと承って参上したが、まだであったので残念であったが、内裏に参ったほうがよかったろうか」とおっしゃると、
「今日は、退出あそばしましょう」と申し上げるので、
「それでは、夕方にでも」と言って、お出になった。
 やはり、この方のお感じやご様子をお聞きになるたびごとに、

「どうして亡くなった姫君のお考えに背いて、お気持ちを汲まないことをしたのだろう」と、後悔する気持ちばかりがつのって、忘れられないのもうっとうしいので、

「どうして、自ら求めて悩まねばならない性格なのだろう」と反省なさる。そのまままだ精進生活で、ますますただひたすら勤行なさって、日をお過ごしになる。
 母宮が、依然としてとても若くおっとりしてはきはきしないお方でも、このようなご様子を、まことに危なく不吉であるとお思いになって、 
「もう先が長くないので、お目にかかっている間は、やはり嬉しい姿を見せてください。世の中をお捨てになるのも、このような出家の身では、反対申し上げるべきことではないが、この世が生きるかいもない気がしそうな心迷いに、ますます罪を得ようかと思われます」とおっしゃるのが、もったいなくおいたわしいので、何もかも思いを忘れるようにして、御前では物思いのない態度をお作りになる。

 

《薫という人は、たいへんこまごまとよく気の回る人で、ここはそのオンパレード、三連打といった場面です。

まずは「長居」への気遣いからですが、もちろん早朝、霧の晴れないうちにやって来ています(第五段2節)から、今、日が昇って来て出勤してきた人々が何事かと不審に思うことは十分に考えられます。そこで、長居しました、と引き下がればいいようなものですが、あえて「御簾の外は馴れておりませんので、体裁の悪い気がしまして」と恨み節の理由付けです。

次に、後で匂宮が「どうして不在の折に来たのだろう」と不審を抱くだろうと、右京大夫を使って、匂宮に会いに来たのだというアリバイ工作ですが、嘘をついての取り繕いで、うまいものだと思わせます。

「やはり、この方のお感じや」以下は、帰宅した後の話でしょう。大君の勧めをはぐらかして中の宮を匂宮に譲ったことを後悔しているという、というところから、大君逝去の後、ずっと「精進生活」をしていると紹介して、そこから、長いこと出てきたことのなかった母・女三宮を引っ張り出し、今度はその人の心配に対する気遣いが語られます。

そも必要な配慮ではあるのですが、この人は、このように語られて、今後またしばらく登場の機会はなく、ここは、まったくこれだけのためのチョイ役です。

そこで、気になるのは、話の本筋とはかかわりのない、こうしたこまごまとしたことを、作者が、どうして書こうと思ったのか、ということです。

やはり、こんなにも気の利く人だったのだと言いたいのでしょうか。

 先にも書いたように『無名草子』が「さらでもと思ふふし一つ見えず」と讃嘆していますが、こういう点も、重要な美質として作者に同意しているのかも知れません。

しかしそれはもう十分に語ってきたように思われて、それをこんなふうにそのいちいちを書かれると、何か滑稽感さえ感じられて、私には、かえって薫がたいへん小さな人間に見えてくるのですが、どうなのでしょうか。また一方で、いや、それが現実の人間なのだだということのような気もしますが…。》

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