【現代語訳】

 親しくお仕えしていた女房たちで、気の確かな者もいないので、院自身が、何事もお分かりにならないようなお気持ちを無理にお静めになって、ご葬送のことをお指図なさる。昔も悲しいとお思いになることを多くご経験なさったお身の上であるが、まことにこのようにご自身でお指図なさることは経験なさらなかったことなので、すべて前にも後にもたぐいないことのような気がなさる。
 そのままその当日に、あれこれしてご葬儀を営み申し上げる。所定の作法があることなので、亡骸を見ながらお過しになるということもできないのが情けない人の世なのであった。広々とした広い野原にいっぱいに人が立ち込めて、この上もなく厳かな葬儀であるが、まことにはかない煙となって、はかなく上っていっておしまいになったのも、常のことであるがあっけなく何とも悲しい。
 地に足が付かない感じで人に支えられてお出ましになったのを、拝し上げる人も

「あれほど威厳のあるお方が」と、ものの分からない下衆まで泣かない者はいないのだった。お送りする女房はそれ以上に夢路に迷ったような気がして、車から転び落ちてしまいそうになるのに手を焼くのであった。
 昔、大将の君の御母君がお亡くなりになった時の暁のことを思い出しても、あの時は、やはりまだ物事の分別ができたのであろうか、月の顔が明るく見えたが、今宵はただもう真暗闇で何も分からないお気持ちでいらっしゃった。
 十四日にお亡くなりになって、葬儀は十五日の暁であった。日はたいそう明るくさし昇って野辺の露も隠れたところなく照らし出して、人の世をいろいろお思いになると、ますます厭わしく悲しいので、後に残ったとしても、どれほど生きられようか。このような悲しみに紛れて、昔からのご本意の出家を遂げたくお思いになるが、女々しいとの後の評判をお考えになると、この時期を過ごしてからとお思いになるにつけ、胸に込み上げてくるものが我慢できないのであった。

 

《紫の上の葬儀を源氏自身が取りしきります。さっきまで夕霧が傍近くにいて「お取りしきりに」なっていたはずです(第三段)から、もう少し出番があってもよさそうなものですが、どうしたのでしょうか。

ともあれ、源氏は最愛の紫の上を送るとあって、これまで多くの人を送ってきたものの、自分でそれを差配するのは初めてでもあり、その思いはひとしおと思われます。

「広々とした広い野原にいっぱいに人が立ち込めて、この上もなく厳かな葬儀」でした。しかしその中で「まことにはかない煙となって、はかなく上っていっておしまいになった」というのは、いつの世にも変わらぬ感慨です。

源氏はもう立っていられないほどの悲しみで、「地に足が付かない」ほどで、秋の満月を眺めても「ますます厭わしく悲しい」といった有様だと言います。

しかし、考えてみると彼はすでに五十一歳、年の祝が四十歳から騒ぎになる時代ですから、それを今の還暦の祝いとすると、すでに七十歳を過ぎたあたりに当たるわけで、この嘆き方は、夕顔に死なれた十七歳の時の悲しみとあまり違わない(さすがにあの時ほどの動顛はありませんが)ように思われて、少々気になります。

勝手な気持を言えば、七十歳(五十一歳)らしい、もっとしめやかでもっと痛切な、いわば「あれほど威厳のあるお方が(原文・さばかりいつかしき御身を)」と言われないような悲しみ(例えば小津安二郎の映画に見られるような悲しみ~あれは庶民版ですがその源氏版)の姿を期待したいのですが、『集成』本第一巻の「解説」によれば、作者がこれを書いたのは三十代半ばということのようで、さすがにそういう老年の悲しみは想像しにくかったということなのでしょうか(いや、今あるものの中にすでにそういうものを読み取るのが本当なのかも知れません)。

ともあれひときりついて、源氏は念願の出家を考えます。しかし「女々しいとの後の評判をお考えになる」と、それもならないと言います。『評釈』が「女人の死のすぐ後をおうのは、女々しいと、当時においても思われたのである」と言います。

現代なら、むしろ美談になりそうです。勘ぐれば作者が源氏の出家姿を描きたくなかったのではないか、という気もしますが、紫の上がそうであったように、このレベルの人の出家は、世をはかなんでするのは恥ずべきことで、むしろ現実の充足を更に昇華するかたちでありたいというような思いがあったということもあるのか、と思います。

ところで、「その当日に、あれこれしてご葬儀を営み申し上げる」というのは驚きですが、それが「所定の作法」だったと言います。葵の上の場合は「なおも諦め切れずにおられたが、その(祈祷の)効もなく何日にもなったので」葬儀に踏み切った(葵の巻第二章第六段)とありました。

また、落葉宮の御息所の葬儀も「普段からそうして欲しいとおっしゃっていたことなので、今日直ちに葬儀を執り行い申しあげる」(夕霧の巻第三章第七段)とありました。すると、やはり「当日」というのは珍しいことのように思われますが、どうなのでしょうか。

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