【現代語訳】

「この願文には、また一緒に差し上げねばならない物があります。そのうちお話しましょう」と、女御には申し上げなさる。その折に、
「今は、このように昔のことを遡ってお分りになったのですが、あちらのご厚意をおろそかにお思いになってはいけませんよ。もともと親しかるべき夫婦や、切っても切れない親兄弟の親しみよりも、関係のない人が通り一遍の情けをかけたり、一言の厚意でも寄せたりしてくれるのは、並大抵のことではありません。
 まして、こちらの方などが始終お付きしていらっしゃるのを見ながら、最初の気持ちも変わらず、深くご厚意をお寄せ申しているのですから。
 昔の世の例にも、いかにも表面だけはかわいがっているふうにするものだと、継子が賢そうに推量するのも利口なようですが、たとえ間違っていても自分にとって内心邪険な気持でいるような継母をそうとは思わず素直に慕っていったならば、その継母も思い返してかわいがり、どうしてこんなかわいい子にと、罰が当たるだろうという気がするにつけても、改心することもきっとあるでしょう。
 並々ならぬ昔からの仇敵というようではない人は、いろいろ行き違いがあっても、お互いに欠点のない場合には、自然と仲好くなる例はたくさんあるようです。

それほどでもないことにとげとげしく難癖をつけ、かわいげなく人を疎んじる心のある人は、とてもうちとけにくく、考えの至らない者と言うべきでしょう。
 多くはありませんが、人の心のあれこれとある様子を見ると、嗜みといい教養といい、それぞれにしっかりした程度の心得は持っているようです。皆それぞれ長所があって、取柄がないでもないが、そうかと言って特別にわが妻にと思って真剣に選ぼうとすれば、なかなか見当たらないものです。
 ただ本当に素直で人柄の好い人は、この対の上だけが、この人をこそ心の寛い人と言うべきだと思います。立派な人と言っても、またあまりに締まりがなくて頼りなさそうなのも、まことに残念なことですよ」とだけおっしゃったが、きっともうお一方のことが思われたことだろう。

 

《源氏は、女御に自分の願文も一緒に渡すことを約束しますが、そのついでに、「あちらのご厚意」(紫の上の心遣い)を語り始めます。

身内の愛情よりも、他人のちょっとした厚意は、はるかにありがたいものだという一般論はなるほどと思われますし、実の母が側にいるのにそれとは関係なく、姫に初めと変わらぬ愛情を保ち続けるということは、確かに生なかのことではないように思われます。

「昔の世の例にも」以下の話は、紫の上の厚意に対してあなたはつまらぬ勘ぐりなどしないで、「素直に慕って」いればいい、ただでさえ誰とでも親しんでみれば「自然と仲好くなる」ものだが、特に紫の上は、他にめったに見られないいい人だから、信じて疑わないことが大切だ、…。

『評釈』が「平安時代の物語といえば、継子いじめがその主要部分を占めていたから、当時の人々にとって継母継子論は大いに興味のあるところ」だったと言います。

作者はそういう意味で語らせているのかも知れませんが、しかし直前の明石一族の人々のドラマチックで格調高い感慨を読んできた後では、なんとも手前勝手な世俗的説教に思われて、むしろ先にあった御方の「対の上のお心はいい加減にはお思い申されますな」(第二段)という短い一言の方がしみじみと感じられるものだったように思います。

尼君の話と入道の手紙によって生まれた親子三人の濃密な連帯の中に、源氏が、そのことに気づかないままに入り込んできているといった印象を受けます。

「ここに展開されるのは、父によって秩序づけられ、父によって組み合わせられた養子、養女の空間であろうとする光源氏体制のほころび、裂け目である」(『物語空間』)とまで言ってしまうのは、この書の例によっての読み加え、読み過ぎで、それでは別の物語になってしまうと思われますが、しかしこれまでその言動のいちいちが光り輝いていた源氏が、どこやら俗な中年男に近づいて来ている様子であることは、すでに幾度か取り上げてきましたが、やはり間違いなさそうです。

もっとも作者としては、ここは、源氏が紫の上のことだけを話してきて、最後に「立派な人(原文は「よき人」、身分の高い人の意味もあります)と言っても」と一言添えたことで、横で聞いていた明石の御方が、「もうお一方」、女三の宮にはご不満がおありのようだと察する、という形で、紫の上の立派さを念押しする話にしたいようです。

話の筋からは逸れますが、「並々ならぬ昔からの仇敵…」以下の一般論は、しかし教訓としてはなかなかいい話です。

世の中に争いや諍いは絶えることがないが、特別な人を除いて実はそうそう悪い人がいるのではなく、問題の大方は、いい人同士の間でのつまらぬ「行き違い」、ボタンの掛け違いか、またはそれぞれが相手を色眼鏡で見ることから起こっているのだ、という意味でしょうが、本当にそう納得するには、ひと年取った上で、なお素直な目を持つという、ちょっと難しい条件が必要かも知れません。源氏はそれを、作者から超越的な地位を与えられることによって獲得したのでしょうか。彼の色好みの弁解とも取れて、滑稽とも言えそうですが。》

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