【現代語訳】

 時雨がひどく降ってのんびりとした日、女一の宮の御方に参上なさったところ、御前に女房も多く伺候していず、ひっそりとして、御絵などを御覧になっている時である。
 御几帳だけを隔てて、お話を申し上げなさる。この上もなく上品で気高い一方で、たおやかでかわいらしいご様子を、長年二人といないものとお思い申し上げなさって、
「他にこのご様子に似た人がこの世にいようか。冷泉院の姫宮だけが、ご寵愛の深さや内々のご様子も奥ゆかしく聞こえるけれど、口に出すすべもなく思い続けていたが、あの山里の人は、かわいらしく上品なところはお劣り申すまい」などとまっさきにお思い出しになると、ますます恋しくて、気紛らわしに、御絵類がたくさん散らかっているのを御覧になると、おもしろい女絵の類で、恋する男の住まいなどを描きこみ、山里の風流な家などや、さまざまな恋する男女の姿を描いてあるのが、身につまされることが多くて、お目が止まりなさるので、少しお願い申し上げなさって、

「あちらへ差し上げたい」とお思いになる。
 在五中将の物語を絵に描いて、妹に琴を教えている絵で、「人の結ばむ」と詠みかけているのを見て、どのようにお思いになったのであろうか、少し近くにお寄りになって、
「昔の人も、こういう間柄では、隔てなくしているものでございます。たいそうよそよそしくばかりおあしらいになるのがたまりません」と、こっそりと申し上げなさると、

「どのような絵であろうか」とお思いになるので、巻き寄せて、御前に差し入れなさったのを、うつ伏して御覧になる御髪がうねうねと流れて、几帳の端からこぼれ出ている一部分を、わずかに拝見なさるのが、どこまでも素晴らしく、

「少しでも血の遠い人とお思い申せるのであったら」とお思いになると、堪えがたくて、
「 若草のね見むものとは思はねどむすぼほれたるここちこそすれ

(若草のように美しいあなたと共寝をしてみようとは思いませんが、悩ましく晴れ晴

れしない気がします)」
 御前に仕えている女房たちは、この宮を特に恥ずかしくお思い申し上げて、物の背後に隠れていた。

「こともあろうに嫌な変なことを」とお思いになって、何ともお返事なさらない。もっともなことで、「うらなくものを(特別な気持ちではありません)」と言った物語の姫君も気が利きすぎて憎らしく思われなさる。
 紫の上が、特にこのお二方を仲よくお育て申されたので、大勢のご姉弟の中で、隔て心なく親しくお思い申し上げていらっしゃった。又とないほど大切にお育て申し上げなさって、伺候する女房たちも、どこか少しでも欠点がある人は、恥ずかしそうである。高貴な人の娘などもとても多かった。
 お心の移りやすい方は、新参の女房に、ちょっと物を言いかけなどなさっては、あの山里辺りをお忘れになる時もない一方で、お訪ねなさることもなく数日がたった。

 

《さて、禁足中の匂宮の日常の行動です。

 冬のいかにも所在なげな一日、女一の宮のところに遊びに行きました。この人は紫の上在世当時から六条院に住んでいて、「東宮のすぐ下の妹(ということは、匂宮の姉)である。匂宮よりは四、五歳年長か。二十九歳ぐらいである。当時で言えばお婆さんのはずである」(『評釈』)という人です。その人を「長年二人といないものとお思い申し上げ」ていて、その素晴らしさは、匂宮が以前(四、五年前の二十歳の頃だったでしょうか)、ひそかに心を寄せていた「冷泉院の姫宮」(匂兵部卿の巻第二章第四段)だけが肩を並べられるくらいかと思うのですが、今は、宇治の中の宮が「(その二人に)お劣り申すまい」と思い出されて、ひとしお恋しく思われました。

女一の宮は絵を見て楽しんでいました。匂宮はそれを中の宮にプレゼントしたいと、姉におねだりをするのですが、選んでいる中に「伊勢物語」第四十九段(男が、妹が他の男の者になるのを惜しく思う話)の絵があり、「どのようにお思いになったのであろうか」、姉に言い寄るような歌を詠みかけました。元の物語の歌を踏まえているとは言っても、いささか露骨な感じで、『集成』は「不埒な歌」と言い、姉宮は返事もしません。

そしてその話のついでに、「お心の移りやすい方は、新参の女房に、ちょっと物を言いかけなどなさって」と、これまでひたすら中の宮に向かっているようだったのとは違った様子を語ります。

以前、「とてもたいそう好色人でいらっしゃって、お通いになる所がたくさんあり、八の宮の姫君にもお気持ちが並々でなく、たいそう足しげくお通いになっている」(紅梅の巻末)とあったことが思い出されて、ちょうどこの頃の話ではないかと思われます。宇治の中の宮を恋しく思う気持ちはそれとして、目の前に女性がいる限りは、それが誰であれ、何はさておき恋の対象として遇するのがエチケットという感覚なのでしょう。

それは、一見確かに「不埒な」態度に見えますが、しかしすべての生物が背負う種の保存という原初的摂理から見れば、自然な感覚でもあるように思われます。対象を厳選しようするのは多く女性の側であることは、テレビで野生動物の生態を見ていても、目にする光景です。一夫一婦というのは、そういう野生をコントロールしようとして考案された一つの制度・文化に過ぎないというべきでしょう。もちろん私自身、今、その公序良俗に異を唱えようというのではありません。ただ、平安貴族の「不埒」に見えるエチケット感覚も、決して突飛な、人非人的な感覚なのではないようだ、と言いたいだけです。

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