【現代語訳】

 昔の事は、長年このように朝夕に親しくお仕えして心の隔てなく思い申し上げる姫君たちにも一言も申し上げたこともなく、隠して来たけれど、中納言の君は、

「老人の問わず語りは、皆、通例のことなので、誰彼なく軽率に言いふらしたりしないにしても、まことに気のおける姫君たちはお聞きになっていらっしゃるだろう」と自然と推し量られるのが、きまりが悪くも困った事とも思われるので、それもまた

「疎遠にしてはおけない」と、言い寄るきっかけにもなるのであろう。

 今は泊まるのも落ち着かない気がして、お帰りなさる時にも、「これや限りの(もう二度と逢えないだろう)」などとおっしゃったが、どうして、そんなことはあるまいと当てにして、二度とお目に掛からないことになってしまったのだろうか、同じ秋であることも変わりなく、多くの日数も経ていないのに、どこに行っておしまいになったのかも分からず、あっけないことだ。

格別に普通の人のような部屋のご装飾もなく、とても質素になさっていたようだが、いかにも清らかなふうに手入れがしてあって、内外を趣深くなさっていたお住まいも、大徳たちが出入りし、あちら側とこちら側と隔てを設けて、御念誦の道具類なども変わらないままであるが、

「仏像は皆あちらのお寺にお移し申そう」と申しているのをお聞きになるにつけても、こうした僧たちの人影などまでが見えなくなってしまう時、後に残ってお思いになるだろう二方の気持ちをお察し申し上げなさるのも、まことに胸が痛く思い続けられてしまう。
「すっかり日が暮れました」と申し上げるので、物思いを中断してお立ちになると、雁が鳴いて飛んで渡って行く。
「 秋霧のはれぬ雲居にいとどしくこの世をかりと言ひ知らすらむ

(秋霧の晴れない雲居で、どうしてさらにいっそうこの世を仮の世だと鳴いて知らせ

るのだろう)」

 

《実はこの弁の君は、八の宮が信用していたらしいだけあって、立派な心得のある人だったようで、当時の都の女性たちの関心を一身に集めていた薫について彼女が知っている秘密は、特一級の話の種であろうにも関わらず、「長年このように朝夕に親しくお仕えして心の隔てなく思い申し上げる姫君たち」にさえも、「一言も」漏らさずにきちんと守り続けてきた、口の固い信用できる人だったのですが、薫はそうは思いませんでした。

さっきのこの人へのしみじみとした語り口とは裏腹に、胸の内では、自分の秘密はこの老婆から姫たちにはすでに伝わっているのだろうと考えたのです。そう思うと、姫たちの「まことに気のおける(原文・いとはづかしげなめる)」様子(前段)が、まるでそのせいであるかのように見えてきます。『心』(漱石)の「私」の「K」に対する疑心暗鬼を思い出します(下・四十四)。

薫は、そういう姫君を「疎遠にしてはおけない」と、まるでテレビのサスペンスドラマの犯人のようなことを考えました。

『評釈』が「ここで問題になるのは、かような世俗の心を(栄達や世望を否定しているはずの)薫の中に設定した作者の態度である」と言って、この言葉が示すと思われる薫の内面の矛盾をさまざまに考察しています。

しかし、確かに普段の薫を考えると違和感のある不純な心情ではありますが、この心情に繋がる話がこのあとほとんど何も出てこないところを見れば、このときたまたま彼の心を掠めた思いに過ぎないと考える方がいいのではないでしょうか。

ちなみに『光る』は「丸谷・単なる恋ではなくて政略としての結婚という要素を入れて、小説的になかなか面白いところです。ただ、そこをもっと筋として展開するといいなあという気がします」と言います。

いや、もっとひいき目に言えば、薫は大君に近づくことを自分に許すための口実(「言い寄るきっかけ」)なら、何でも欲しかっただけなのだと考えることもできます。

また、この作者は時々、男性の登場人物については人格の統一性を無視して(忘れて)、その場の読者への話題提供のように、こういう男のいやらしさなどをエピソードとして書きたくなる時があるようで、単発的に語ることがあります。例えば、紫の上が悩んだ末に意を決して女三の宮に会いに行く夜に、源氏は朧月夜に会いに出かけたこと(若菜上の巻第八章第二段)などもそうですが、源氏や薫という人を考える時に、こういう単発的な一つのエピソードをあまり大きく考えない方がいいように思います。さすがに近代小説そのものではなくて、昔物語の痕跡が残っていると言えるでしょうか。

一方で実は、女性の登場人物にはそういうことがほとんど見当たらず、おおむね人格の統一が果たされているように思います。

これらのことは、この作者が描こうとしているのは「女性」の悲哀なのであって、そのためには、男性が時によっていろいろな顔をしていることも意に介されていない、ということを示しているように思います。

薫には、同じようなエピソードがずっと後にも、また出てきます。

さて薫は八の宮がいないこの邸に泊まることはならず、帰ろうとしますが、先ほどの不純な気持は消えて、八の宮と最後に話し合った時(第二章第二段)のことを思い出して、ひとえに宮の不在を悲しみ、感慨ひとしおです。

その彼の思いが「格別に普通の人のような…」と、そのまま地の文に繋がって片付けのざわめきとなり、「このような様子の人影などまでが…」と、再び今度は姫君たちへの思いやりのもの思いに流れていき、胸の内の詠嘆が歌となって、もうあの不純な思いはすっかり忘れられていると言っていいでしょう。》

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