【現代語訳】

 大将の君はいつも大変に心配して、お見舞い申しあげなさる。ご昇進のお祝いにも早速参上なさった。このいらっしゃる対の屋の辺りのこちらの御門は、馬や車がいっぱいで、人々が騒がしく混雑しあっていた。今年になってからは、起き上がることもほとんどなさらないので、重々しいご様子に、取り乱した恰好ではお会いすることがおできになれないで、気にしながら会えずに弱ってしまったことだ、と思うと残念なので、
「どうぞ、こちらへお入り下さい。まことにむさくるしい恰好でおりますご無礼は、お察しでお許しいただけましょう」と言って、臥せっていらっしゃる枕元に、僧たちを暫く外にお出しになって、お入れ申し上げなさる。
 昔から、少しも隔てなさることなく仲好くしていらっしゃったお仲なので、別れることの悲しく恋しいに違いない嘆きは、親兄弟の思いにも負けない。今日はお祝いということで、元気になっていたらどんなによかろうと思うが、まことに残念で、その甲斐もない。
「どうしてこんなにお弱りになってしまわれたのですか。今日は、このようなお祝いに、少しでも元気でいらっしゃろうかと思っておりましたのに」と言って、几帳の端を引き上げなさったところ、
「まことに残念なことに、本来の自分ではなくなってしまいましたよ」と言って、烏帽子だけを押し入れるように被って、少し起き上がろうとなさるが、とても苦しそうである。白い着物で、柔らかそうなのをたくさん重ね着して、衾を引き掛けて臥していらっしゃる。御病床の辺りをこぎれいにしていて、あたりに香が薫っていて、奥ゆかしい感じにお過ごしになっていた。くつろいだままながら、嗜みがあると見える。

重病人というものは、自然と髪や髭も乱れ、むさくるしい様子がするものだが、痩せてはいるが、かえってますます白く上品な感じがして、枕を立ててお話申し上げなさる様子は、とても弱々しそうで息も絶え絶えで、見ていて気の毒そうである。

 

《「大将の君」は夕霧で、さっそく、親しい友の昇進の祝いにやってきました。二年前に大納言になっていますから、「この昇進に関与するところ」があったのだろうと『評釈』が言いますが、なるほど、ありそうなことです。

彼は二ヶ月前の年末には「(柏木の)お側近くに見舞っては、大変にお嘆きになっておろおろしていらっしゃる」(若菜下の巻末)のでしたが、それ以後は、容態が悪くなるとともに、柏木の方が、夕霧の「(大納言という)重々しいご様子に」、病床のむさ苦しい姿で会うことを憚っていたようです。

しかし、今日は祝いということでもあり、長らく会わなかった恋しさもあってでしょう、あえて会うことにします。

会ってしまえば、あとは何と言っても竹馬の友、率直で親密な対話が交わされます。

夕霧は「どうしてこんなに…」と、率直に心配を口にします。普通の見舞いでは言えない、親しい友だちならではの言葉です。

柏木も気持がおれたりすることもなく、「本来の自分ではなくなってしまいましたよ」と、いかにも自然に回復不可能を語ります。もう覚悟をしている様子です。

そういいながら、作者は、柏木の美しい姿を描き出します。それは、まるで死に化粧を語るように聞こえます。》

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