【現代語訳】
 今日は宮の御方に昼お渡りになる。特別念入りにお化粧なさっているご様子を、今初めて拝見する女房などは、宮以上に素晴らしいとお思い申し上げることであろう。御乳母などの年とった女房たちは、
「さあ、どうでしょう。この方ご自身はご立派ですが、不愉快に思うようなことがきっと起こることでしょう」と、嬉しいなかにも心配する者もいるのだった。
 女宮は、たいそうかわいらしげに子供っぽい様子で、お部屋飾りなどが仰々しく、堂々と整然としているが、ご自身は無心に頼りないご様子で、まったくお召し物に埋まって身体もないかのようにほっそりしていらっしゃる。特に恥ずかしがりもなさらず、まるで子供が人見知りしないような感じがして、気の張らないかわいい感じでいらっしゃった。
「院の帝は、男らしく理屈っぽい方面のご学問などはしっかりしていらっしゃらないと、世間の人は思っていたようだが、趣味の方面や、風流、教養では、人より勝れていらっしゃったのに、どうしてこのようにおっとりとお育てになったのだろう、実のところ、たいそうお心にとめていらっしゃった内親王と聞いたのだが」と思うと、何やら残念な気がするが、それもかわいいと拝見なさる。
 ただ申し上げなさるままに素直にお従いになって、お返事なども、お心に浮かんだことは、何の考えもなくお口に出されて、とても目が放せないご様子にお見えになる。
 もし昔の自分だったら、嫌になってがっかりしただろうが、今では、世の中を人それぞれだと穏やかに考えて、
「あれやこれやといろいろな女がいるが、飛び抜けて立派な人はいないものだなあ。それぞれいろいろな特色があるものだが、はたから見れば、まったく申し分のない方なのだ」とお思いになると、二人一緒にいつも離れずお暮らし申して来られた年月からも、対の上のご様子がやはり立派で、「自分ながらもよく教育したものだ」とお思いになる。

一晩の間、朝の間も、恋しく気にかかって、いっそうのご愛情が増すので、「どうしてこんなに思われるのだろう」と、不吉な予感までなさる。

 

《冒頭の「今日」は、前段の翌日、新婚五日目です(『評釈』は六日目と言います。どういう数え方なのでしょうか)。

初めの三日は夜の訪問で、その後は昼行ってもよいのだそうです。姫宮付きの女房たちは、この時初めて源氏の昼の顔を見ることになりますから、源氏も入念に支度をして出かけました。その様子は、姫よりも美しく思うだろうと、作者は言います。

 その姫宮は、至って幼く、「お召し物に埋まって身体もないかのように」が大げさで面白いのですが、感じがよく分かります。

 しかし、かわいいだけで、「まるで子供が人見知りしないような感じ」と言いますから、教養・知性に何ひとつ具わらないもののない天下の源氏四十歳は、もの足りぬことおびただしいと、兄の教育に疑問を抱きながらも、見ているとそのあまりの素直さがあぶなっかしくもあって、誰かが傍に付いていてやらなくてはと、いとおしい気もするのです。

「若いころの考えであったなら、嫌になってがっかりしただろう」と言いますが、昔の夕顔をちょっと幼くしたような感じと考えれば、基本的には全くタイプ外の女性というわけでもないように思われます(夕顔の巻第四章第二段3節)。

父性とか、あるいはひと歳とった者の無垢なるものへの憧れといった気持もあるのでしょうか。

が、それでもさすがに、いくら何でも年甲斐もない、という気もするのでしょう、あえて「はたから見れば、まったく申し分のない方なのだ」と自分に言い聞かせて、今後はきちんとお世話をしなくてはなるまいと思うのでした。

それにしても、とまた思います。この姫宮を含めて「いろいろな女がいるが、飛び抜けて立派な女はいない」ものだと思うに付け、思い出されるのは紫の上の素晴らしさ。「自分ながらもよく教育したものだ」と自画自賛して、彼女の許に飛んででも帰りたい気持です。

初めの「御乳母などの年とった女房たち」の心配は、どうやら杞憂というわけでもなさそうなのです。》

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