【現代語訳】

 十二月の二十日過ぎのころに、中宮が御退出あそばして、今年の残りの御祈祷に、奈良の京の七大寺に御誦経のため布を四千反、この平安京の四十寺に絹を四百疋分けてお納めあそばす。
 ありがたいご養育をお分かりでいらっしゃって、どのような機会に、深い感謝の気持ちを表して御覧に入れようかとお思いになって、父宮と母御息所とがご存命ならばきっとして差し上げただろう感謝の気持ちも添えてご計画になったのだが、あのようにあえて帝に対してもご辞退申し上げていらっしゃるので、お考えの多くを中止なさった。
「四十の賀ということは、先例を聞きましても、残りの寿命が長い例が少なかったので、今回は、やはり、世間の騷ぎになることをお止めになって、ほんとうに後に寿命を保った時に祝ってください」とあったが、公的催しとなって、やはりたいそう盛大になったのであった。

 宮のいらっしゃる町の寝殿に御準備などをして、前のと特に変わらず、上達部の禄など大饗に準じて、親王たちには特に女装束を、非参議の四位、廷臣たちなどの普通の殿上人には白い細長を一襲と腰差などまで、次々とお与えになる。
 装束はこの上なく善美を尽くして、有名な帯や御佩刀など、故前坊のお形見として御相続なさっているのも、また感慨に堪えないことである。古来第一の宝物として名のある物は、すべて集まって参るような御賀のようである。昔物語にも、引出物を与えることをたいしたこととして一つ一つ数え上げているようであるが、これはとても煩わしいので、ご立派な方々のご贈答の数々は、とても数え上げることができない。

 

《続いて中宮も、源氏の四十の賀を催しました。

奈良や京都の寺に布・絹を納めたのは、もちろんその賀の法要のためで、四千、四百というのはそれにちなむ数字(『集成』)、「一反」は「着物一着分に要する布地」、「一疋は反物二反分」(同)だそうです。なお、「布」は「絹に対し、植物の繊維で織った織物の総称」(『辞典』)です。従って「絹」は動物性の繊維で織ったものとなりそうですが、『辞典』には単に「絹織物」とあるだけです。

この数字だけでも大変なものですが、彼女はその他にお祝いのさまざまな計画を立てていました。その多く源氏に辞退されて、やむなく中止したと言いますが、それでも「公的催しとなって、やはりたいそう盛大になった」のでした。

六条院の中宮の邸で饗宴が催され、参列者に禄が贈られるのですが、「玉鬘の時には賜禄はなく、紫の上の場合は、楽人の禄のみであった」(『集成』)のであって、「親王方にまで禄を賜るのは、玉鬘や紫の上の身分ではできないことであり、ここに中宮としての格がある」と『評釈』が言います。禄も、出せばいいというわけではないようで、なかなか難しいものです。

なお、「十二月の二十日過ぎ」とありますが、『評釈』は二十三日ではなかったかとして、「玉鬘が今年の正月、源氏に若菜をさし上げて四十の賀をお祝いしたのも二十三日のことであったし、紫の上がこの十月にした精進落ちもわざわざ『二十三日』と銘記してある。注釈家の中には二十三日が光源氏の誕生日だったのではないかと言っている」と言います。

また、「昔物語にも、引出物を与えることを…」については、『宇津保物語』に「一つ一つ数え上げている」ところがあるようで、『評釈』がそれを挙げながら「一々そんなことをしていたら、とてもきりがありませんね、高貴な御身分の方々のおつきあいは、数えられるものではありませんよ、と作者はみえをきる」のだと言います。こちらの方が禄が多かったのだと誇っているということのようですが、かえって「昔物語」らしいと思ってしまいます。いや、そうではなくて、それを承知で、ギャグとしてみんなで笑って読んだところなのかも知れません。

ここは引用ばかりになってしまいました。》

にほんブログ村 本ブログ 古典文学へにほんブログ村 教育ブログ 国語科教育へにほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ