【現代語訳】

 朝ぼらけの美しい空に、さまざまの鳥の声がとてもうららかに囀っている。花はみな散り終わって、その後に霞のかかった梢が浅緑の木立となっていて、「昔、藤の宴をなさったのは、今頃の季節であったな」と思い出されなさると、あれからずいぶん歳月の過ぎ去った事も、その当時の事も、次から次へとしみじみと思い出される。
 中納言の君が、お見送り申し上げようと妻戸を押し開けたが、立ち戻りなさって、
「この藤の花よ。どうしてこのように美しく染め出して咲いているのか。やはり、何とも言えない風情のある色あいだな。どうして、この花蔭を離れることができようか」と、どうしても帰りにくそうにためらっていらっしゃる。
 築山の端からさし昇ってくる朝日の明るい光に映えて、目も眩むように美しいお姿が、年とともにこの上なくご立派におなりになったご様子などを、久し振りに月日を経て拝見するのは、いよいよ世の常の人とは思われない気がするので、
「こんなふうにでもどうして一緒にお暮らしにならなかったのだろうか。御宮仕えにも限りがあって、特別のご身分になられることもなかったのに。故宮が万事にお心をお尽くしになって、けしからぬ世の騷ぎで軽々しいお噂まで立って、それきりになってしまったことだわ」などと思い出される。

尽きない思いが多く残っているだろうお話の終わりは、ほんとうに後を続けたいものであろうが、御身をお心のままにおできになれず、大勢の人目に触れることもたいそう恐ろしく遠慮もされるので、だんだん日が上って行くのに気がせかれて、廊の戸に御車をつけ寄せた供人たちも、そっと催促申し上げる。
 人を呼んで、あの咲きかかっている藤の花を、一枝折らせなさる。
「 沈みしも忘れぬものをこりずまに身も投げつべき宿の藤波

(須磨に身を沈めたことは忘れないが、懲りもせずにこの家の藤の花の淵に身を投げ

てしまいたい)」
 とてもひどく思い悩んでいらっしゃって、物に寄り掛かっていらっしゃるのを、お気の毒に拝し上げる。女君も、今さらにとても遠慮されて、いろいろと思い乱れていらっしゃるが、藤の花の蔭はやはり慕わしくて、
「 身を投げむ淵もまことの淵ならでかけじやさらにこりずまの波

(身を投げようとおっしゃる淵も本当の淵ではないのですから、性懲りもなくそんな

偽りの波に誘われたりしません)」
 とても若々しいお振る舞いを、ご自分ながらも良くないこととお思いになりながら、関守が固くないのに気を許してか、たいそうよく後の逢瀬を約束してお帰りになる。
 その昔も、誰にも勝ってご執心でいらっしゃったご愛情であるが、わずかの契りで終わってしまったお二人の仲なので、どうして思いの浅いことがあろうか。

 

《夜が明けて見ると、庭は昔のままに美しく、藤の花もあの時と同じ春の装いです。源氏はしばらく、ちょうど二十年前の懐旧の思いに耽っています。例によって、その姿は中納言の君をしてほれぼれとさせ、彼女は、「こんなふうに…」と、二人を一緒にさせなかった「故宮」(弘徽殿の大后)を、改めて恨めしく思わせるほどだったのでした。

人目を憚る源氏は、もう帰らなくてはなりません。従者も急かします。あの思いでの藤の花を一枝折らせて、歌を交わします。

このように久し振りに源氏の後朝の別れが描かれるのですが、情調の美しさに比して、初めに自分の呼びかけに応じる相手を見下した気持が混じるなど、どうも不純なものが感じられて、所詮はこの場だけのことになるのではないか思われ、物語の流れの中に入っていない、といった妙な感じがあります。

『構想と鑑賞』が、源氏のこうした行動を「感心させられることではない」と憤慨しながら、「二人の間の情事も、昔の思い出もあって、かなり豊かな情緒をたたえて描いている」とは言っていますが、なお、「このような心理や情緒は、今までに何度か描かれているので、生新な感興は湧かない」と言っていて、大方の率直なところではないでしょうか。

女三の宮と朧月夜との対照を意識している、ということは考えられますが、少なくとも源氏の意識としてそのように描かれてはいないようで、やはりこの話だけが浮き上がって感じられます。

『光る』は、囲碁に喩えて「丸谷・うまいですよ。これは変なところに打っておいた石がものすごく効くという仕掛けですね」と言いますが、どういうふうに効いているのか、よく分かりません。

結局この件は、源氏が年来の思いを遂げたというだけの話なのではないでしょうか。
 といっても、そこには少し意味がありそうです。例えば藤壺とのことと思い並べてみるとよいのですが、あの時はお互いに心を寄せ合いながら、思い通りの逢瀬はかないませんでした。しかしここでは同じく帝の夫人であった人とほぼ思いのままに逢うことができるのです。円熟した男女のほしいままの恋の姿であって、源氏の権勢がここまで大きくなったのだという、一つの証しとして語られているのだと考えると、収まりがいいような気がします。ただそれは、一方で秘密裏での出来事であること、また「計算高い、保身を優先させた導き手(和泉前司)の協力を得た可能になったのだという、幻滅すべき」(『物語空間』)出来事であったということにもなっていて、「生新な感興」からはほど遠いものになってしまっている、とも言えます。

なお『世界』所収「『若菜』巻の始発をめぐって」が、「(女三の宮に関わる)激しい内的葛藤の場と、さまで一見関わりのなさそうな事件や場面があまりにも繁く長々とかたられている」としてこの朧月夜の話や前の源氏四十の賀の件(第五章)などを挙げ、これらの話がはさまれていることの意味を考察することを予告しています(昭和三十九年現在)が、残念ながらまだ見ていません。》

にほんブログ村 本ブログ 古典文学へにほんブログ村 教育ブログ 国語科教育へにほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ