源氏物語 ・ おもしろ読み

ドストエフスキーの全著作に匹敵する(?)日本の古典一巻を 現代語訳で読み,かつ解く,自称・労大作ブログ 一日一話。

浮舟の傾き

第二段 その同じ頃、薫からも手紙が届く~その2

【現代語訳】

「とりあえず、あれを。誰も見ていないうちに」とお促し申す。
「今日は、お返事申し上げることができません」と恥じらって、手習に、
「 里の名をわが身に知れば山城の宇治のわたりぞいとど住み憂き

(里の名をわが身によそえると、山城の宇治の辺りはますます住みにくいことです)」
 宮がお描きになった絵を、時々見ては自然涙がこぼれた。

「末長く続くものではない」と、あれやこれやと考えてみるが、他のところに関係をすっかり断ってお逢いしないのは、とても耐えられなく思われることだろう。
「 かきくらし晴れせぬ峰のあま雲に浮きて世をふる身をもなさばや

(真っ暗になって晴れない峰の雨雲のように、空にただよう煙となってしまいたい)
 『まじりなば(雲になってしまいたい)』」と申し上げたので、宮は声を上げて泣かれる。

「そうは言っても、恋しいと思っているらしい」とご想像なさるにつけても、物思いに沈んでいる様子ばかりが面影にお見えになる。
 真面目な方は、のんびりと御覧になりながら、

「ああ、どのような思いでいるのだろう」と想像して、たいそう恋しい。
「 つれづれと身を知る雨のをやまねば袖さへいとどみかさまさりて

(寂しくわが身を知らされる雨が小止みもなく降り続くので、袖までが涙でますます

濡れてしまいます)」
 とあるのを、下にも置かず御覧になる。

 

《「とりあえず、あれを」というのは、返事を書くことを勧めたのです。「誰も見ていないうちに」とありますから、匂宮の手紙の返事を促したわけですが、するとこれを言ったのは、侍従の方でしょうか。

 しかし、浮舟は心変わりしたと思われるような気がして、書けません。彼女はただ「手習に」歌を書いてみます。「里の名を」と詠み起こしたのは、薫の歌の「里人」を受けることによって、自分の心変わりをカモフラージュしたということでしょうか。

 「宮がお描きになった絵を、時々見」るというのが、よく分かりません。

諸注、この絵は、匂宮と初めて会った時に描いた(第二章第八段)絵としますが、あれは「とても美しそうな男と女が、一緒に添い臥している絵」だったはずで(『光る』が「丸谷・要するに偃息図(春画)を描いたわけでしょう」と言っています)、そんな絵をこういうところで見るものでしょうか。またそれを見て「自然涙がこぼれた」とは、どういう感覚なのだろうかと思います。

それも、どうやら今この場面でのことのようですが、「時々(原文も同じ)」というのも、ちらちら横目で見るように思えて、変です。どういうことなのでしょうか。

 しかし、ともかく、ここではもう彼女の心がすっかり匂宮に傾いていることは、よく分かります。二通の手紙を目の前に並べられたことで、自然とその軽重が見えてしまった、ということでしょうか。前段の冷静さからは、一歩踏み出した感じです。
 その一方で、そういう関係が「このまま末長く続くものではない」ということもよく理解できます。生活は薫に世話になるしかないのですが、それによって宮との関係を「すっかり断ってお逢いしないのは、とても耐えられなく」思われます。

 「かきくらし」の歌は、宮の歌「ながめやるそなたの雲も」(この章冒頭)を受けて、その思いのままに匂宮に送った返事なのでしょう。上の句は宮と薫の間を揺れ動く彼女の心の暗示と思われ、そのつらさに「いっそ死んで火葬の煙となってしまいたい、の意」(『集成』)とすると、ずいぶん率直です。

それを受けて宮が「声を上げて泣かれる」のはいいとして、そこまで彼女を追い詰めたのは彼自身なのですから、彼がどう考えたのか、もう少し知りたいところですが、「『そうは言っても、恋しいと思っているらしい(原文・さりとも、恋しく思ふらむかし)』とご想像なさる」とは、ただやにさがっているだけに見えて、何とも言いようがない気がします。

 もちろん作者としては、浮舟を憐れんで、つらく思ったのだ、と言いたいのでしょうが、 源氏もそうでしたが、この人たちは自分の行動によって他人(女性)が苦しい立場になることについて、反省し改めるということがありません(少女の巻第六章第五段)。自分の欲求やそこからの行動は、すべて所与のこととして、その是非を顧みないようなのです。

 また、作者もそれはそういうものだと考えているようで、そういう男の側の上から目線に対する批判は見当たらないように思います。

 薫への歌の「つれづれと身を知る」は、何も知らない彼には、ただ寂しい気持ちを言っているとしか思われないでしょうが、恋の駆け引きにしてはいささか痛切に聞こえる言葉で、「下にも置かず御覧にな」るのは、一体何ごとかと、思案するというところでしょう。『評釈』は声を上げて泣いた匂宮に比べて、思いが薄いように言いますが、そう比べるには、置かれた事情が違いすぎますし、「たいそう恋しい」と思い合わせると、宮の泣き声に劣らぬ思い入れが現れていると考えてもいいように思われます。》

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第四段 薫と浮舟、それぞれの思い

【現代語訳】

「造らせている所は、だんだんと出来上がって来ました。先日見たところ、ここよりはやさしい感じの川があって、花も御覧になれましょう。三条宮邸も近い所です。毎日会わないでいる不安も自然と消えましょうから、この春のころに、差し支えなければお連れしよう」と思っておっしゃるのにつけても、

「あの方がのんびりとした所を考えついたと昨日もおっしゃっていたが、このようなことをご存知なくて、そのようにお考えになっているのだろう」と、心が痛みながらも、

「そちらに靡くべきではないのだ」と思うその一方で、先日のお姿が面影に現れるので、「自分ながらも嫌な情けない身の上だ」と、思い続けて泣く。
「お気持ちが、このようでなくおっとりとしていたのが、のんびりと嬉しかった。誰かが何か言い聞かせたことがあるのですか。少しでも並々の愛情であったら、こうしてわざわざやって来ることができる身分でも道中でもないのですよ」などと言って、初旬ころの夕月夜に、少し端に近い所に臥して外を眺めていらっしゃる。男君は亡くなった姫君のことを思い出しなさり、女君は今から加わった身のつらさを嘆いて、お互いに物思いする。

 山の方は霞が隔てて、寒い洲崎に立っている鵲の姿も場所柄かとても興趣深く見えるが、宇治橋がはるばると見渡されるところに、柴積み舟があちこちで行き交っているなど、他の場所では見慣れないことばかりがあれやこれやある所なので、御覧になる度ごとに、やはりその当時のことがまるで今のような気がして、ほんとにこうではない女を相手にするのでさえ、めったにないほど逢瀬の風情の多いにちがいないところである。まして、恋しい人に似ていることもこの上なく、次第に男女の情を知り、都の女らしくなっていく様子がかわいらしいにつけて、思ったよりすっかり良くなった感じがなさるが、女はあれこれ物思いする心中に思わず湧き上る涙がややもすれば流れ出すのを、慰めかねなさって、
「 宇治橋のながき契りは朽ちせじをあやぶむかたに心さわぐな

(宇治橋のように末長い約束は朽ちはしないから、不安に思って心配なさるな)
 やがてお分かりになりましょう」とおっしゃる。
「 絶え間のみ世にはあやふき宇治橋を朽ちせぬものとなほたのめとや

(絶え間ばかりが気がかりな宇治橋ですのに、朽ちないものと思って依然頼りにせよ

とおっしゃるのですか)」
 以前よりもまことに置いて帰りがたく、暫くの間も逗留していたくお思いになるが、

「世間の噂がうるさいのに、今さら長居をすべきでもない。気楽に会える時になったら」などとお考え直しになって、早朝にお帰りになった。とても素晴らしく成長なさったなと、おいたわしくお思い出しになることは今まで以上であった。

 

《薫は浮舟を都に迎える楽しい計画を話して聞かせて、一緒に喜ぼうとしますが、その話を聞いても、浮舟が思うのは、匂宮が以前話していて(第二章第九段1節)、「昨日」の手紙にもあったらしい、彼の方の同じような計画のことで、しかも心配するのは薫の話を知ったら宮がどう思われるかということばかりで、その逆ではありません。今や彼女は匂宮との側にいて薫を見ています。

 もちろん「そちらに靡くべきではないのだ」と思うには思うのですが、その傍から宮の面影が浮かんでしまって、「自分ながらも嫌な情けない身の上だ」と我が心を持てあまして、泣くしかありません。

 薫は楽しい話をしたつもりなのに、浮舟の機嫌が一向に直らないので、怪訝な気持ちで手をこまねくままに「初旬ころの夕月夜」を眺めて、大君を思い出し、その面影を追います。実は彼の心も浮舟にはなく、本当に身代わりであるに過ぎなく見えます。こういうところを読むと、薫を絶賛する『無名草子』の筆者は、これをどう考えるのだろうかと聞きたくなります。

さて、一方の浮舟も心乱れるままにうつむいてしまって、同じようにそれぞれに自分の物思いに耽ってしまいました。

折りから、端近からの眺めには、宇治川に霞がかかって、その絶え間に鷺の姿が見え、また芝舟が行き交って、えも言えない幽玄の光景が広がっています。「めったにないほど逢瀬の風情の多いにちがいないちがいないところ」で、薫は「恋しい人に似ているのもこの上な」い浮舟が「だんだんと男女の情を知り、都の女らしくなって」(彼は、浮舟は自分の訪れがなかったことを恨んでいるのだと思っているのです)いることに満足して、改めて何とかなだめようと、変わらぬ愛を誓おうと歌を詠み掛けました。

 それに対する浮舟の返歌は何とも微妙な歌で、一見薫の長い不在を恨んでいるようですが、そこでの「宇治橋」は彼女自身の薫への心でもあるかのようです。

 匂宮と浮舟の一日(第二章第八段)が愛し合う者同士の愛の戯れと高揚に過ぎたのに比べて、この一夜はまことに行儀好く、浮舟にとってはつらいばかりの時間が過ぎたようです。

 薫は、事を知らないことからの思い違いに独りよがりに満足して、逗留したい気持ちもここまで我慢してきたのだし、近々都に呼べばゆっくりできるのだからと、自分に言い聞かせて、都に帰って行ったのでした。》

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