【現代語訳】

 宮は、

「こうして依然として少しも承知する様子も、返事までが途絶えがちになるのは、あの人が、しかるべく言い含めて、少し安心な方に考えが決まったのだろう。もっともなことだ」とはお思いになるが、たいそう残念で悔しく、
「それにしても、私を慕っていたのに、逢わない間に、女房たちが説き聞かせる方に傾くのだろう」などと物思いなさると、『行く方知らず(恋しさはどこへ晴らしようもなく)』、『むなしき空に満ち(むなしい空いっぱい満ち)』あふれた気がなさるので、いつものように、大変なご決意でおいでになった。
 葦垣の方を見ると、いつもと違って、
「あれは、誰だ」と言う声々が、目ざとげである。いったん退いて事情を知っている男を入れたが、その男までを尋問する。以前の様子と違っている。困って、
「京から急のお手紙があるのだ」と言う。右近の従者の名を呼んで会った。

たいへんに困ったと、ますます思う。
「全然、今夜はだめです。まことに恐れ多いことで」と言わせた。

宮は、

「どうして、こんなによそよそしくするのだろう」とお思いになると、たまらなくなって、
「まず、時方が入って、侍従に会って、しかるべくはからえ」と言って遣わす。才覚ある人で、あれこれ言い繕って、探し出して会った。
「どうしたわけでしょうか、あの殿のお言いつけがあると言って、宿直にいる者たちが出しゃばっているところで、たいそう困っているのです。御前におかれても、深く思い嘆いていらっしゃるらしいのは、このようなご訪問のもったいなさに、お心を乱していらっしゃるのだ、とお気の毒に思って見ています。まったく、今晩は、誰かが様子に気づきましたら、かえってたいへんまずいことになりましょう。すぐに、そのようにお考えあそばしている夜には、こちらでも誰にも知られず計画しまして、ご案内申し上げましょう」
 乳母が目を覚ましやすいことなども話す。大夫は、
「おいでになった道中が大変なことで、ぜひにもというお気持ちなので、甲斐もなくお返事申し上げるのは、具合が悪い。それでは、来てください。一緒に詳しく申し上げて下さい」と誘う。
「とても無理でしょう」と言い合いをしているうちに、夜もたいそう更けて行く。

 

《匂宮の方は、浮舟からの返事が一向に来ないことに、大変気をもんでいます。薫が言いくるめてしまったのか、女房たちが説得して常識的な生き方を選んだのか、と思うと、残念な思いがあふれます。

 「行く方知らず」は『古今集』488「わが恋はむなしき空に満ちぬらしおもひやれども行く方もなし」によるのだそうですが、自分の中に湧き上り溢れ出る恋しさが、受け止めてくれるもののないままに行き所を失って宙に満ち満ちているというのは、なかなかおもしろい、しかも実感的な表現です。そういえば、薫が浮舟を宇治に連れてくるときに、大宮を失った悲しみを同じように感じたことがありました(東屋の巻第六章第六段)。

宮は堪えかねて、とうとう強行して宇治にやって来てしまったのでしたが、しかし、来てみると、以前来た時に見た「葦垣」(第二章第二段)のあたりは、あの時と違って、物々しい警備のようです。「いったん退いて…」は敬語がありませんから、後に出てくる時方が、ということのようです。案内を乞おうと入りかけた時方が、一度引き下がって、部下の「事情を知っている男」(『評釈』によれば「邸の下男か下女かと仲のよい男」)に、都の母君からの使者という体で行かせます。彼は「右近の従者の名」を言いましたから、さすがにそれならと通されたようです。しかし、ここでも「今夜はだめ」と言われて帰って来ます。

 宮が「どうして、こんなによそよそしくするのだろう」と思ったのは、自分と浮舟のことが薫に知られているということをまだ知らないからでしょう。

彼はさらに、それでも何とかと無理に時方を行かせます。特に「侍従に会って」と指定したのは、道行の時に(第四章第四段)一人同行してきたことで知っているからでしょうが、さらにその時の「『とても素晴らしい』と思い申し上げていた」様子から、彼女が宮贔屓であることを感じているのかも知れません。

時方は「才覚ある人」で、首尾よく侍従に会うことはできました。ここで、十九世紀自然主義文学で育った私などは、ここまであれほど固かったガードが急にほぐれたのはなぜか、そんな疑問がわきますが、『評釈』が、「この物語の読者は(そんな細かなことには)興味を感じない」として、西洋の名言を引いています。曰く「生活だって。そんなことは下僕に任せてある」(ヴィリエ・リラダン)。

しかし、頼みの侍従の返事も、またしても「今晩はだめです」とのこと、押したり引いたりですが、右大将のガードはさすがに硬いようです。

 侍従の「すぐに、そのように…」は、匂宮が浮舟を引き取るとお考えになるその夜は、「すぐに」こちらも準備を整えてご連絡します、ということのようですが、それもノーの返事なので、大夫(時方)は手ぶらでは帰れない気持ちで、一緒に来て申し開きをしてほしいと言うのですが、とてもそんなことができそうにない状況ですから、「才覚ある人」はよほど困ったのでしょう。

ところで、初めの匂宮の「しかるべく言い含めて…」の原文は「あるべきさまに言ひしたためて、すこし心やすかるべき方に」です。この言い方は、彼自身が考えても薫に付いて行くのがこの女の本来あるべき生き方なのだと認めているように聞こえますし、最後の「もっともなことだ」は、それをダメ押ししているように見えます。

また続く「たいそう残念で悔しく」は「いとくちをしくねたく」で、これはいかにも薫と張り合っているという感じの言葉に聞こえて、全体として私たちには、これは純粋な愛によるものではなくて、いかにも意地を張っての横車なのだと言っているように見えるのですが、どうなのでしょうか。

しかし、だからと言って、そのことで匂宮の恋の真実を疑ってはならないのでしょう。思えば、そのように恋の駆け引きにゲーム的に、しかし本気で熱中する中で無数の見事な恋歌を紡いだのが、平安貴族の日常でもあったようなのですから。》