【現代語訳】

 宮は、いつもよりも愛情深く、心を許した様子にお扱いをなさって、
「まったく食事をなさらないのは、とてもよくないことです」と言って、結構な果物を持って来させ、また、しかるべき人を召して特別に料理させなどして、お勧め申し上げなさるが、まるで手をお出しにならないので、

「困ったことだ」とご心配申し上げなさっているうちに、日が暮れたので、夕方、寝殿へお渡りになった。
 風が涼しく、いったいの空も趣きのあるころなので、派手好みでいらっしゃるご性分なので、ますます浮き浮きした気になるのだが、物思いをしている方のご心中は、何事につけ堪え難いことばかりが多かったのである。蜩のなく声に、山里ばかりが恋しくて、
「 おほかたに聞かましものをひぐらしの声うらめしき秋の暮かな

(宇治にいたら何気なく聞いただろうに、今日は蜩の声が恨めしい秋の暮だこと)」
 今夜はまだ更けないうちにお出かけになるようである。御前駆の声が遠くなるにつれて、海人が釣するくらいなるのも、

「自分ながらいやな心根だわ」と、思いながら聞き臥せっていらっしゃった。はじめから物思いをおさせになった頃のことなどを思い出すにつけても、もうたくさんだとまでに思われる。
「この身重の悩ましさも、どのようになるのであろう。たいそう短命な一族なので、このような折にでもと、亡くなってしまうのであろうか」と思うと、

「惜しくはないが、悲しくもあり、またとても罪深いことであるというが」などと、眠れないままに夜を明かしなさる。

 

《匂宮はあい変わらず中の宮に優しく振舞います。身重の体を気遣い、食事に気を配って、至れり尽くせりの趣です。しかし体調もさることながら気持ちの塞ぐ中の宮は、そうした思い遣りに応じることができません。

 そうしているうちに一日が過ぎて、「日が暮れたので、」と、匂宮の気持ちの何の説明もなく、いかにも当然のこととして、むしろ「ますます浮き浮きした気」さえ見せて、匂宮は六の君のもとに出かける準備に「夕方、寝殿へお渡りになっ」てしまいました。

 源氏が女三宮を迎えるにあたっては、紫の上に対して可能な限りの気配りをしたものでした(若菜上の巻第四章第一段)が、ここはまことにあっけらかんとしたものです。

 そしてあとには、中の宮の物思いだけが残ります。

 状況は紫の上によく似ていますが、「紫の上ほど自信の持てる立場でもなく」(『構想と鑑賞』)、彼女はひたすら、あの物思いのなかった宇治を思い返して「海人が釣するくらい」にたくさんの涙に暮れるのですが、それでも心の一方では、そんなふうに悲しんでいる自分を「自分ながらいやな心根だわ」と振り返っているところを見ると、誇り高く自分の嫉妬を見せまいと堪える紫の上時代の女性とは違った冷静さを持っているように見えて、確かにこれまでにはなかった新しいタイプの女性とも言えそうです。》

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