【現代語訳】

 宮のお見舞いに毎日参上なさらない方はなく、世間の騷ぎとなっているころ、

「大した身分でもない女のために閉じ籠もって、参上しないのも変だろう」とお思いになって参上なさる。
 そのころ、式部卿宮と申し上げた方もお亡くなりになったので、御叔父の服喪で薄鈍でいるのも、心中しみじみと思いよそえられて、ふさわしく見える。少し顔が痩せて、ますます優美さがまさっていらっしゃる。

お見舞い客が退出して、ひっそりとした夕暮である。
 宮は、すっかり寝こんでいるというほどではないお加減なので、疎遠な客にこそお会いにならないが、御簾の内側にもいつもお入りになる方にはお会いなさらないわけでもない。顔をお見せになるのも何となく気がひけるし、お会いなさるにつけてもますます涙が止めがたいことをお思いになるが、気持ちを抑えて、
「大したひどい病気ではございませんが、誰もが用心しなければならない病状だとばかり言うので、帝にも母宮にも、御心配下さるのがとても心苦しく、まことに世の中の無常をも心細く思っております」とおっしゃって、押し拭ってお隠しになろうとする涙が、そのまま防ぎようもなく流れ落ちたので、たいそう体裁が悪いが、

「必ずしも気がつくわけでもあるまい。ただ女々しく心弱い者のように見るだろう」とお思いになるが、

「そうであったのか。ただこの事だけをお悲しみになっていたのだ。いつから始まったのだろうか。自分を、どんなにも滑稽に物笑いなさるお気持ちで、この幾月もお思い続けていらっしゃったのだろう」と思って、この君は悲しみはお忘れになっているのを、
「何とまあ薄情な方であろうか。物を切に思う時は、ほんとこのような事でない時でさえ、空を飛ぶ鳥が鳴き渡って行くのにつけても涙が催されて悲しいのに、私がこのように何となく心弱くなっているのにつけても、もし真相を知ったら、それほど人の悲しみを分からない人ではないのに、世の中の無常を身にしみて思っている人は冷淡でいられることよ」 と、羨ましくも立派だともお思いになる一方で、女のゆかりと思うとなつかしい。この人に向かい合っている様子をご想像になると、「形見なのだ」と、じっと見つめていらっしゃる。

 

《匂宮に物の怪でも着いたらしいという噂に、「毎日(見舞いに)参上なさらない方はなく」、そうなると薫も行かなくてはなりません。

「大した身分でもない女のために閉じ籠もって」という言葉には驚きますが、言い方はともかく、私情よりも社会習慣を上位に考えるべき宮仕えの身からすれば、男らしい立派な決意だとも言えます。「女々しく心弱」く私情そのままに振舞えるのは、特別な地位の人なのです。

 「式部卿宮」は紫の上の父もそう呼ばれていましたが、もちろん別の後の人で、『集成』は、かつて薫との縁組を考えたことがある(東屋の巻第二章第一段2節)という人だと言います(ただし、『評釈』は、ここに「初出」としています)。その人が亡くなり、薫の叔父に当たる人だったので、薫は今喪服を着ているのでした。彼は浮舟のために「表立って喪に服することはできない」(『集成』)身で、折よくというのも変ですが、「心中しみじみと思いよそえられて、(彼自身)ふさわしく見える」のでした。こういう感じ方は、芝居気取りのいい気な独りよがりと咎められそうですが、悲しみを秘めて已むを得ず人中に出なくてはならないときに、まったく何ごともないふうに振舞うのは、悲しみの対象の人に不義だとも思われて、それを避けられて少し気持ちが楽になるというのは、それもまた対象の人へのせめてもの思いであるのです。次の「少し顔が痩せて…」が、作者はそういう感じ方を了としていることを表しているように見えます。

 さて、匂宮との対面ですが、双方とも、ずいぶん気まずい対面です。匂宮の「何となく気がひける」と「ますます涙が止めがたい」が同居する気持ちは、理屈としては分かりますが、実際はなかなか同居しがたいような気がします。

 宮は、薫が自分と浮舟とのことを気付いているとは知りませんから、自分の涙を薫はただ病気で気が弱くなっているせいだと思うだろうと考えています。

 その薫は宮の涙を見て、改めて浮舟とのつながりの深さを確信して、自分の愚かさを思い、宮への恨めしさを思って、百年の恋も冷めるような気持ちです。

 それを見て宮は、自分がこれほど悲しい思いでいるのに、普段通りに冷静そうに見える薫に、「何とまあ薄情な方であろうか」と思うのですが、そういう悲しみを招いたのがほかならぬ自分であることにまるで思い至らず、かえって薫を浮舟の形見だと「じっと見つめて」いるという何とも図々しく、あきれた無神経ぶりです。
 もっとも、そう考えるのは現代の私たちで、作者はこの匂宮を図々しく無神経な男として描こうとしたのではないでしょう。
『評釈』は「匂宮は、恋しいときには恋に溺れ、悲しいときには悲しみにくれる。それは我儘であると同時に純粋である」と言います。
 が、恋のさなかにある時の「純粋」は恋という病気の一環としてそれなりに美しいものと言えても、こういう場面でのこの「純粋」は、幼児ではないのですから、あまり好ましい「純粋」ではないように思われます。

 さらに『評釈』は一方で、薫を「こんな自分の姿は、ばかに見えるのではないかと思ってしまう。これでは、悲しみを純粋に悲しむことはできない」と言いますが、間男をされた当のその男の前で、そのために死んだ恋人の死を純粋に悲しむような男がいるとしたら、その方がよほど異様に思われるでしょう。

 あるいは、ここで匂宮と薫が手を取り合って泣くというような、時代遅れの青春漫画のような場面が期待されているのでしょうか。しかし作者はもはやそういうお伽話を信じてはいないのです。》

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