【現代語訳】
 三月のころの空がうららかに晴れた日、六条の院に、兵部卿宮や衛門督などが参上なさった。大殿がお出ましになって、お話などなさる。
「静かな生活は、このごろ大変に退屈で気の紛れることがないね。公私とも平穏無事だ。何をして今日一日を暮らせばよかろうか」などとおっしゃって、
「今朝、大将が来ていたが、どこに行ったのだろうか。何とも手持ち無沙汰で、いつものように、小弓を射させて見物すればよかったことだ。お好きらしい若い人たちが見えていたが、惜しいことに帰ってしまったかな」と、お尋ねさせなさる。
「大将の君は、東の町で人々と大勢して、蹴鞠をさせて御覧になっていらっしゃる」とお聞きになって、
「無作法な遊びだが、それでも派手で気の利いた遊びだ。どれ、こちらで」といって、お言葉が伝えられたので、参上なさった。若い公達といった人々が多くいたのであった。
「鞠をお持たせになったか。誰々が来ているか」とお尋ねになる。
「誰それがおります」
「こちらへ来ませんか」とおっしゃって、寝殿の東面、桐壺の女御が若宮をお連れ申して参上していらっしゃっている折なので、こちらはひっそりしていた。

遣水などの合流する所が広々としていて、趣のある場所を探して勢揃いする。

太政大臣のご子息たちの頭弁、兵衛佐、大夫の君など、年輩者もまた若い者も、それぞれに他の人より立派な方ばかりでいらっしゃる。

 だんだん日が暮れかかって行き、「風が吹かず、絶好の日だ」と興じて、弁君も我慢できずに仲間に入ったので、大殿が、
「弁官までが落ち着いていられないようだから、上達部であっても、若い近衛府司たちは、どうして飛び出して行かないのか。それくらいの年では、変に見てばかりいるのは、残念に思われたことだ。とはいえ、とても騒々しいな。この遊びの有様はな」などとおっしゃると、大将も督君も、みなお下りになって、何ともいえない美しい桜の花の蔭で、あちこち動きなさる夕映えの姿は、たいそう美しい。決して体裁よくなく、騒々しく落ち着きのない遊びのようだが、場所柄により人柄によるのであった。

 

《明石の女御が御子を出産したその月の、末ごろにでもなるのでしょう、晩春のうららかな日、「兵部卿宮や衛門督など」が源氏の所にご機嫌伺いにやって来ました。ここはそういう時にそういう雅な人々の集う邸なのですが、この時、中に、密かに女三の宮に心をよせる柏木もいました。今日やって来たのも、なにがしかの期待があるのかも知れません。

そうでなくても物憂い晩春、しかも「源氏は準太上天皇で、政治の実務には携わらない」(『集成』)ので、至って退屈をしていた時でしたから、彼は話を交わしながら、ふと夕霧でもいたら、小弓見物でもできように、と思い付きました。

その夕霧は、花散里の東の邸にいましたが、ここにも仲間が来ていて、蹴鞠をさせて遊んでいるとのこと、それなら、こちらでやったらどうか、と源氏が誘ったので、みなで源氏のいる南の邸にやってきます。

ちょうど寝殿の東の間の明石の女御は若宮を連れて東宮に行っていて留守なので、そこの庭でやることになりました。

みんなで東の邸に見に行くという選択もなくはなかったのですが、そうしないで呼び寄せるところからの設定を源氏がしたわけです。

客もこちらにおり、源氏が最上位者ですから、こちらに来なさいと言うのは、至って自然な流れなのですが、しかし自分自身のふとした思いつきと小さな選択が、彼の晩年をこれまでとはまったく違うものにしてしまう、大事件の引き金になる出来事を自ら呼び寄せることになってしまったというのは、運命のいたずらと言うしかありません。

シェイクスピア劇の人々の多くがそうであるように、人が自ら意志する行動によって、その意志に反して、知らぬ間に運命の糸に絡め取られて滅んでいくドラマを、悲劇というのだというのは、おこがましいながら私の考えですが、爛漫の春の花の下でいずれ劣らぬ貴公子たちが優雅な遊びに喜々として興じる、今のこの庭には、そんな暗い陰はどんなに探してもないように見えます。

ところで、蹴鞠という遊びが、当時は大人たちから「無作法な遊びだが、それでも派手で気の利いた遊び」、「とても騒々しいな。この遊びの有様は」と見られていたというのは面白いことです。狩衣、指貫姿で、脚で鞠を蹴上げるなどという振る舞いは見方によっては過度にエネルギッシュで、当時としてはどこか貴族性を逸脱した遊びで、映画『ウエストサイド物語』のバスケットボールのような、固定した階級社会に内向する若者の憂鬱をぶつけるというような危険な、ともすれば若者の暴走に火を付けるような遊び、といった一面を持っていたのか、などと妄想してしまいます。

ともあれ、源氏が若者世界に取り込まれたきっかけとなった場面ではあります。》

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