【現代語訳】2

明日ご入山なさるという日は、いつもと違ってあちらこちらとお歩きになって御覧になる。たいそう質素に仮の宿としてお過ごしになったお住まいの様子を、

「亡くなった後、どのようにして若い姫君たちが世の中と縁を切って籠もってお過ごしになれようか」と、涙ぐみながら念誦なさる様子は、たいそう清らかである。
 年配の女房たちを召し出して、
「心配のないようにお仕えしなさい。何事も、もともと気軽で世間に噂にならないような身分の人は、子孫の零落することもよくあることで、目立ちもしないだろう。このような身分になると、世間の人は何とも思わないだろうが、みじめな有様で流浪するのは、宿縁に対して不面目で、心苦しいことが多いだろう。

物寂しく心細い世の中を送ることは、世の常である。生まれた家の格式やしきたり通りに身を処するというのが、人聞きにも、自分の気持ちとしても、間違いのないように思われるだろう。贅沢な人並みの生活をしようと望んでも、その思う通りにならない時勢であったら、決して決して軽々しく良くない男をお取り持ち申すな」などとおっしゃる。
 まだ夜の明けないうちにお出になろうとして、こちらにお渡りになって、
「いなくなっても、心細くお嘆きなさるな。気持ちだけは明るく持って音楽の遊びなどはなさい。何事も思うに適わない世の中だ。深刻に思い詰めなさるな」などと、振り返りながらお出になった。

お二方は、ますます心細く物思いに閉ざされて、寝ても起きても語り合いながら、
「どちらか一方がいなくなったら、どのようにして暮らしていけましょうか」
「今は、将来もはっきりしないこの世で、もし別れるようなことがあったら」などと、泣いたり笑ったりしながら、遊び事も手仕事も心を合わせて慰め合いながらお過ごしになる。

 

《いよいよ入山の日、八の宮は最後に家をあちこちと歩いてみながら、懐旧の思いと娘たちの将来への不安とで、感慨ひとしお、ひたすら念誦している、というのですが、その姿を、「たいそう清らかである(原文・いときよげなり)」というのは、どういうことでしょうか。『辞典』は「(和歌の言葉づかい・人物などの容姿が)美しいさま」と言いますが、こういうところで容姿の美しさはないのではないでしょうか。

悲劇の人の姿として悪くはない姿ですが、訳した言葉で考えると、外見ではなく精神的な美しさのようで、娘への恩愛の情に堪えながらの念誦の姿がありがたく神々しく見えたというような気持なのでしょうか。

それと、気になるのは「いつものように、静かな場所で、念仏を専心に行おう」と思っての山籠もりだったはずで(第四段)、それなら毎年四季ごとに行い慣れたもので、前回は七日間でした(橋姫の巻第三章第一段)。それにしてはこのあたりの言動は、今生の別れのようで、思い入れが強すぎるように思えて、「重く身を慎むべきお年」(第一章第五段)であることで、季節とともに「ひどく心細くお感じになった」という理由だけでは、私にはちょっと弱いような気がしますが、当時の感覚なのでしょう。

女房たちに「良くない男をお取り持ち申すな」と厳しく言い置き、出立に際して娘の所に行き、「深刻に思い詰めなさるな」と言い置きます。

しかし、こういう言い置きをすればするほど、そんなに人に言うなら、そういうことを自分で引き受けてはどうか思えます。それを人におっかぶせておいて自分は煩悩のない世界に行ってしまうというのでは、どうも虫がいいという感じを拭えませんが、西行の逸話などを思うと、出家とはそのように行われるものだったということなのでしょう。

宮の往った後、二人の姫は「泣いたり笑ったりしながら、遊び事も手仕事も心を合わせて慰め合いながらお過ごしになる」のだったと言います。さもありなんと思われて切ない感じはしますが、それにしてもいささか当たり前すぎて、このことを書くのなら、もう少し具体的なイメージの湧く言葉が欲しい気がします。

更に付け加えると、この父宮の山籠もりは通常一週間ほどのもののようであるのに、この二人が、父自身と同じように、もう二度と父を見ることがないかのような対話をするのも変です。二人から見た父の体調がやはりそれほど悪いものだったということなのでしょうか。

どうもこのあたりは、あえてそういう悲劇的な方向に話をもっていこうとしているという感じが強く、もう一つ入り込めない気がします。》

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