【現代語訳】

 御前には女房たちがあまりいない時なので、この手紙を持って行って、
「あの方が、こんなにも忘れられないといって、手紙をお寄こしになるのが面倒なことでございます。お気の毒そうな様子を見るに見かねる気持ちが起こりはせぬかと、自分の心ながら分らなくなります」と、笑って申し上げると、
「とても嫌なことを言うのね」と、無邪気におっしゃって、手紙を広げたのを御覧になる。「見もせぬ」という歌を引いたところを、不注意だった御簾の端の事に自然と思い当たられたので、お顔が赤くなって、大殿があれほど何かあるごとに、
「大将に見られたりなどなさらないように。子供っぽいところがおありのようだから、ついついうっかりしていて、お見かけ申すようなことがあるかも知れない」と、ご注意申し上げなさっていたのをお思い出しになると、
「大将が、こんなことがあった、とお話し申し上げるようなことがあったら、どんなにお叱りになるだろう」と、この人が拝見なさったことについてはお考えにならないで、まずは叱られることを恐がり申される心の内は幼いことだった。
 いつもよりもお言葉がないので、はりあいがなく、特に無理して催促申し上げるべきことでもないから、こっそりといつものように書く。
「先日は、そ知らぬ顔をなさっていましたね。失礼なことだとお許し申し上げませんでしたのに、『見ずもあらぬ』とは何ですか。まあ、思わせぶりなことです」と、さらさらと走り書きして、
「 いまさらに色にな出でそ山桜およばぬ枝に心かけきと

(今さらお顔の色にお出しなさいますな、手の届きそうもない桜の枝に思いを掛けた

などと)
 無駄なことですよ」とある。

 

《小侍従は、先に「(姫宮の)乳母子」とあった人で、これまで幾度も柏木から、仲立ちをするよう責められてきました(前章第三段)が、どうやらその頼みを聞き入れたことはないようです。

しかし今、彼女は柏木の手紙を姫に見せることにしました。手紙にあった歌の意味が理解できれば、そんなことはしなかったでしょうが、「猫の騒ぎの善後処置をあやまった女房連の一人らしい」(『評釈』)軽率さです。

柏木の気持ちをただの色好みの懸想くらいに軽く考え、もちろん姫宮もまともに相手するはずもないと思い、「面倒なこと」だと言い、ひょっとすると仲立ちしますよと、姫をからかい気味に「笑って」渡します。「小侍従は柏木を笑いものにするつもり」(『評釈』)のようなのです。

姫もそれを理解して「無邪気に」受け取りますが、引き歌の意味を理解して、ひとり青ざめます(文中には「お顔が赤くなって」とありますが)。しかしそれは、わが姿を見られたことの意味を理解して恥じ入ったのではなく、源氏に叱られることを恐れて、ということで、本筋を逸れた、何とも子供じみた怖れだったのでした。それも、「いつもよりもお言葉がない」と小侍従が感じるほど、しばらく口もきけないような動揺です。

小侍従は、もちろんその理由が分からず、自分の冗談にも乗って貰えないので拍子抜けの格好で、部屋に引き下がり、しいて姫からの返事もいらないと考えて、自分からの返事を書きました。

「見ずもあらぬ」は、あの引き歌の初句で、小侍従からすれば、実際に姫宮をみたわけでもないのに、まるで見たような言い方をしているのが「思わせぶり」だというのでしょう。

このあたり、『光る』は、「大野・小侍従はもはや柏木と関係があると思う。だから少し相手をなめて無礼に扱っている」と言い、「丸谷・『及ばぬ枝』っていふときに、『およぶ枝』は自分なんですよ。(笑)」と言います。先の「笑いものにする」というのとつなげてみると、どうやら小侍従は、源氏正室の側近ということから、柏木に対しては上から目線の対応ということのようで、最後の「無駄なことですよ」は、ほとんど姉さん女房が若いツバメを叱りつける格好に聞こえます。

さて、話が小侍従の方へ変に逸れて、さまざまにボタンの掛け違いのような格好で、この巻が終わります。それを『光る』が、「丸谷・読者をじらす。…実に手慣れた小説的な進行のさせ方になっていますね」と言います。

ただし、同書は先に「丸谷・(小侍従は、あの蹴鞠の)当日は留守で、このとき、現場を見ていなかった」と言っていますが、この返事の「先日」というのはあの日もことを言っていると考えるのが普通で、小侍従も現場にいてなお気がつかなかったのだと読む方が、この人の軽さが表れて、話としておもしろいように思います。》

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