【現代語訳】

 お堂を飾り終わり、講師が壇上して、行香の人々も参集なさったので、院もそちらに出ようとなさって宮のいらっしゃる西の廂の間にお立ち寄りになると、狭い感じのする仮の御座所に、窮屈そうに暑苦しいほどに仰々しく装束をした女房たちが五、六十人ほど集まっている。北の廂の間の簀子まで女童などはうろうろしている。香炉をたくさん使って、煙いほど扇ぎ散らすので、近づきなさって、
「空薫物はどこで焚いているのか分からないくらいなのがよいのだ。富士山の噴煙以上に煙がたちこめているのは、感心しないことだ。お経の御講義の時には、まわりの音は立てないようにして、静かにお説教の意味を理解しなければならないことだから、遠慮のない衣ずれの音、人のいる感じは、出さないのがよいのです」などと、いつものとおり思慮の足りない若い女房たちの心用意をお教えになる。宮は、人気に圧倒されなさって、とても小柄で美しい感じに臥せっていらっしゃった。
「若君は騒がしかろう。抱いてあちらへお連れ申せ」などとおっしゃる。
 北の御障子も取り放って、御簾を掛けてある。そちらに女房たちをお入れになる。静かにさせて、宮にも法会の内容がお分かりになるように予備知識をお教え申し上げなさる。とてもやさしく見える。御座所をお譲りになった仏のお飾り付けを御覧になるにつけても、あれこれと感慨無量で、
「このような仏事の御供養を、ご一緒にしようとは思いもしなかったことだ。まあ、しかたない。せめて来世では、あの蓮の花の中の宿で仲好く、と思って下さい」とおっしゃってお泣きになった。
「 はちす葉をおなじ台と契りおきて露のわかるるけふぞ悲しき

(来世は同じ蓮の花の中でと約束したが、その葉に置く露のように別々でいる今日が

悲しい)」
と、御硯に筆を濡らして、香染の御扇にお書き付けになった。宮は、
「 隔てなくはちすの宿を契りても君が心やすまじとすらむ

(蓮の花の宿を一緒に仲好くしようと約束なさっても、あなたの本心は私と一緒にと

は思っていらっしゃらないでしょう)」
とお書きになったので、
「せっかくの申し出をかいなくされるのですね」と、苦笑しながらも、やはりしみじみと感に堪えないご様子である。

 

《いよいよ舞台が整って、法要が始まろうとします。

ここの見出しは、二人の和歌に焦点を当てていますが、読んでみると、『評釈』が一つひとつ具体的に指摘しているように、女三の宮お付きの女房たちの至らなさが目に付くところです。

それに添ってここでも取り上げておきます。

まず、「空薫物」です。源氏の言うとおり、当然「どこで焚いているのか分からないくらいなのがよい」のだと、現代の私たちでさえ思うのですが、この部屋の女房たちは「富士山の噴煙以上」に焚いて、ほとんど煙っている、という感じのようです。

次は、「お経の御講義の時には、あたり一帯の音は立てないようにして」と、まるで子供に教えているようです。『評釈』がいうように、「主家の権威を笠に着て、説経師ふぜいは問題にせず見下げている連中が、何十人と集団でいれば、何をしでかすか分かったものではない」という心配があるような、「思慮の足りない若い女房たち」ばかりなのです。「衣ずれの音、人のいる感じは、出さないのがよい」とまで、細かく言わねば、安心ならないようです。

そういう女房たちの中にあって、女三の宮はといえば、「人気(ひとけ)に圧倒されなさって、とても小柄で美しい感じに臥せっていらっしゃ」るばかりで、自分では何もできません。

そして「若君」が法要の最中に騒がないように、別室に連れて行かせ(「これは乳母の用意のなさか」・『評釈』)、更に今度は宮に対して「法会の予備知識をお教え申しあげ」ます。

まったく到れり尽くせりの指導、気配りで、これが準太上天皇のすることかと思われますが、それは逆に、宮とその周囲がいかにしまりがないかということの証しでもあります。

こういった具合ですから、柏木とのことが起こってしまったのでもありますが、それでも源氏は「来世では、あの蓮の花の中の宿を一緒に仲好く」と言います。いや、これはこういう時の形、リップサービスなのかも知れません。

それに対して宮の歌は、『評釈』は「いわけなさを脱け出て、大人らしくなった落ち着きがある」と言うのですが、それではここだけ急に一人前になった感じで、そぐわないような気がします。

そもそも、父院に出家を懇願した時も、「とても弱々しくお泣きになって」のお願いだったのであって、意を決してというのではなく、彼女としては他に手立てが無くなった末のものだったのでした。それを例えば『源氏物語の女君たち』などは「実に潔い見事な決断」と讃えますが、それは評者自身の場合をそこに敢えて重ねようとしたのかとも思われる、思い入れからの偏った誤解ではないかと思われます。

もちろんこういう場合、男性の申し出に対して皮肉を交えて返歌するというのは、よくある形ですが、この人の出家せざるを得なかったような心境から思えば、あれ以後とくに心境の変化をもたらすような出来事も語られていませんから、ここもその流れで、どうせ私など相手になさらないでしょうにというのが彼女としての本音と思われて、子供っぽくいじけた印象さえ感じられます。》

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