源氏物語 ・ おもしろ読み

ドストエフスキーの全著作に匹敵する(?)日本の古典一巻を 現代語訳で読み,かつ解く,自称・労大作ブログ 一日一話。

大君と紫の上

第一段 大君死す

【現代語訳】

「結局捨てて逝っておしまいになったら、この世に少しも生きている気がしない。寿命がもし決まっていて生き永らえたとしても、深い山に紛れ入ってしまうつもりです。ただ、とてもお気の毒に、お残りになる方の御事を心配いたします」と、答えていただこうと思って、あの方の御事におふれになると、顔を隠していらっしゃったお袖を少し離して、
「このようにはかないご縁ではありました、お気持ちの分からないようにお思いになられてしまうのも効がないので、このお残りになる人を、同じようにお思い申し上げてくださいと、それとなく申し上げましたが、その通りにしてくださったらどんなに安心して死ねただろうにと、このことだけが恨めしいことで、思いが残りそうに思われます」とおっしゃるので、
「このようにひどく物思いをする身の上なのでしょうか。何としても、他の人には執着することがありませんでしたので、ご意向にお従い申し上げずになってしまいました。今になって、悔しく心痛む思いがします。けれども、ご心配申し上げなさいますな」などと慰めて、たいそう苦しそうになさるので、修法の阿闍梨たちを召し入れさせて、いろいろな効験のある僧全員して、加持して差し上げさせなさる。ご自分でも仏にお祈りあそばすこと、この上ない。
 世の中を特に厭い離れなさいとお勧めになる仏などが、とてもこのようにつらい目にお遭わせになるのだろうか。見ている前で草木が枯れていくようにしてお亡くなりになったのは、何と悲しいことであろうか。引き止める手立てもなく、足摺りもしそうに、人が愚かだと見たりすることも気にしない。

ご臨終と見申し上げなさって、中の宮が自分も一緒にと嘆き悲しみなさる様子ももっともなことである。正気を失ったようにお見えになるのを、いつものように利口ぶった女房連中が、

「もう今は、まことに不吉なこと」と、お引き離し申し上げる。

 

《薫は何とか大君と話を続けたいと、さらに語りかけます。あなたが死んでしまわれたら、自分は山にこもってしまうつもりだが、そうすると後に一人残る中の宮が心配だ、…。

 妹のことを言われると、大君も口を開かずにはいられません。あなたが私の代わりにあの子に思いをかけて下さらないので、私は死んでも死に切れないのです、…。

 薫は、今になってみればそうすればよかったのかもしれないとなかば悔いる思いですが、今はともかく「けれども、ご心配申し上げなさいますな」、私が引き受けますと、慰めます。ついさっき言ったこととはずいぶん話が違いますが、この際言葉のつじつまなどはどうでもよく、話ができればいい、大君の心を安らげられさえすればいいという、彼の真心と考えておきます。

 そして、重ねて懸命の加持祈祷ですが、薫の言葉を聞いて安心したのか、もはや大君に力は残っておらず、「草木が枯れていくようにしてお亡くなりになっ」てしまいました。

 紫の上の場合は「消えてゆく露のような感じがして」亡くなったのでした(御法の巻第二章第二段)から、ここも大変よく似ていると言えるでしょう。

 ただ、決定的に違うのは、紫の上の臨終を看取る役を務めたのは主として娘の明石中宮で、源氏はその場にいるにはいたのですが、脇役的だったのに対して、大君は薫に看取られてほとんどその腕の中での臨終だったという点で、言うならばこの二人の愛はその最高潮のところで、そのままに閉じられ、少なくとも大君にとっては完全なままで永遠のものとなったわけです。それは決して本当の意味で幸福なものとは言えないでしょうが、彼女にとっては、自分に可能な唯一にして最善の方法だったということなのでしょう。

 大君の死の気配を察したのでしょうか、奥に入っていた中の宮が出てきて、亡骸に取りすがって、自分も一緒に行くのだと悲しむのを、女房たちが、「利口ぶっ」て、縁起でもないとなだめて引き離します。『評釈』は「癪に障る連中である」と我がことのように大変怒っています。》

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第九段 薫、大君に寄り添う

【現代語訳】

 ただこうしておいでになるのを皆が頼みにお思い申し上げていた。いつものように、近いところに座っていらっしゃると、御几帳などを風が烈しく吹くので、中の宮は奥のほうにお入りになる。むさくるしい感じの人びとも、恥ずかしがって隠れている時に、たいそう近くに寄って、
「どんなお具合ですか。私のありたけを尽くしてご祈祷申し上げる効もなく、お声をさえ聞かなくなってしまったので、まことに情けない。後に残してお逝きになったら、どんなにつらいことでしょう」と、泣く泣く申し上げなさる。意識もはっきりしなくなった様子だが、顔はしっかりと隠していらっしゃる。
「気分の好い時があったら、申し上げたいこともございますが、ただもう息も絶えそうにばかりなってゆくのは、残念なことです」と、本当に悲しいと思っていらっしゃる様子なので、ますます涙を抑えがたくて、不吉に、このように心細そうに思っているとは見られまいとお隠しになるが、泣き声まで上げられてしまう。
「どのような宿縁で、この上なくお慕い申し上げながら、つらいことが多くてお別れ申すのだろうか。少し嫌な様子でもお見せになったら、思いを冷ますきっかけにしよう」と見守っているが、ますますいとしく惜しく、美しいご様子ばかりが見える。
 腕などもたいそう細くなって、影のように弱々しいが、肌の色艶も変わらず、白くかわいい感じでなよなよとして、白い御衣などの柔らかなのを掛けて、衾を押しやって、中に身のない雛人形を臥せているような気がして、お髪はたいして多くもなくうちやられている、それが、枕からこぼれているあたりが、つやつやと素晴らしく美しいのも、

「どのようにおなりになろうとするのか」と生きていかれそうにもなく見えるのが、惜しいことは類がない。
 幾月も長く患って身づくろいもしてない様子が、気を許そうともせずこちらが恥ずかしくなるようで、この上なく飾りたてて騒いでいる人よりもずっとまさって、こまかに見ていると、魂も抜け出してしまいそうである。

 

《この恐ろしい風の夜、控えている女房たちにとっては、薫がずっと大君の床の近くに座って見守っているのだけが、微かな頼りに思われています。雪を乗せた風が吹き荒れて、部屋の中までも入り込み、ときどき几帳を吹き上げますので、中の宮は姿を見られないように奥に入り、女房たちもそれに倣って引き下がりました。

 それを見て薫は、膝を進めて大君の近くに寄って声を掛けます。

 大君は、話したいことがあるけれども、その力がないと虫の息です。それを聞いて薫はとうとう声を上げて泣くのでした。あまりにつらくて、「少し嫌な様子でもお見せになったら、思いを冷ますきっかけにしよう」とまで思うのですが、見れば見るほどいとおしくなるばかりです。こういう薫の気持ちは、実は紫の上の晩年に源氏も抱いていたことがあるような気がして、少し読み返しますが、見当たりません。

 しかし、以下の大君の描写は、その臨終の際に夕霧の目に映った紫の上の姿に大変よく似ています。長くなりますが、引いてみます。

「御髪が無造作に枕許にうちやられていらっしゃる様は、ふさふさと美しくて一筋も乱れた様子はなく、つやつやと愛らしい様子はこの上ない。灯がたいそう明るいので、お顔の色はとても白くかがやくようで、何かと身づくろいをしていらっしゃった生前のお姿よりも、正体のない状態で無心に臥せっていらっしゃるご様子が、一点の非の打ちどころもないと言うのもことさらめいているほどである。」(御法の巻第二章第四段)

 病みつかれているはずの死に臨む人が「肌の色艶も変わらず(原文・色あひも変わらず)」とか「お顔の色はとても白くかがやくよう(原文・御色は白く『光る』やう)」などと、神々しくも美しく見えるというのは、ちょっと想像を超える感じがしますが、ここで言えば、薫に大君はそのように見えたのです。

 その大君を見つめる薫について、『評釈』が「彼の脳裏に、胸中に、姫宮の美は永遠に生き続けるのだ」と言いますが、これは失礼ながらおそらくこの評者の意図以上に的確にこの場面の意味を語っているように思われます。つまり、大君の側から言えば、こういう形で薫の永遠に変わらない愛(前段)をもっとも純粋な形で手に入れたのです。

しかしまたそれは逆に、女性はこのようにしか、変わらぬ愛を得ることはできないのではないかという、作者の悲しい認識でもあるでしょう。

巻名の「総角」は三つの輪を作って一か所で結び合わせる「結び方」の呼び名であったのですが、この二人は結ばれたことになるのか、どうか、『光る』が「ずいぶんアイロニカル」だと言います。》

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第三段 中の宮、昼寝の夢から覚める

【現代語訳】

 夕暮の空の様子がひどくもの寂しく、時雨れてきて、木の下を吹き払う風の音などに、たとえようもなく来し方行く末が思い続けられて、寄り臥していらっしゃる様子は、上品でこの上なくお見えになる。

白いお召し物に、髪は梳くこともなさらず幾日も経ってしまっているが、まつわりつくことなく流れて、この数日少し青くやつれていらっしゃるのが優美さがまさって、外を見やっていらっしゃる目もとや額つきの様子も、分かる人に見せたいほどである。
 昼寝の君は、風がたいそう荒々しいのに目を覚まされて起き上がりなさった。山吹襲に、薄紫色の袿などがはなやかな色合いで、お顔は特別に染めてぼかしでもしたように、とても美しくあでやかで、少しも物思いをする様子もなさっていない。
「故宮が夢にお見えでしたが、とてもご心配そうな様子で、このあたりにぼんやりといらっしゃいました」とお話しになると、ますます悲しさがつのって、
「お亡くなりになって後、何とか夢にもお会いしたいと思うけれど、全く見申し上げていません」と言って、お二方ともひどくお泣きになる。
「最近、明け暮れお思い出し申しているので、お姿をお見せになるのだろうか。何とか、おいでになるところへ尋ねて参りたい。罪障の深い私たちだから」と、来世のことまでお考えになる。唐国にあったという香の煙を、本当に手に入れたくお思いになる。

 

《悲哀に満ちた、美しい場面を『評釈』が次のように歌いあげます。少し長いですが。

「あらあらしく吹きすさぶ風に心をまかせつつ、幸薄かった来し方をかえりみ、暗澹とした行く先を思い続けて、ようやく脇息に身をささえる。夕暮れのほの暗さの中の姫宮。かぼそい体が白い御衣にぼうとはかなげに浮き出て流れる黒髪の姿の高貴さ。この世の栄花に遠く現世の人のむさぼる楽しみも大方は知らず、わが身のことはあきらめはてて、妹にたくした夢さえ破れ、病んで、今は身に罪の多からぬうちにと、この世での生を思いきってすらいるひとに添う気高さは、胸痛いまで。…」

 まことにその通りですが、しかし、例えば紫の上の臨終直前(御法の巻第一章第六段)の場面などを思い出すと、彼女の悲哀が自分ではいかんともしがたい宿命的なものであるのに対して、この人の場合は、そこまで悲しむのなら、一度薫に運命を託してみたらどうだろうかという思いが抜けず、我とわが身を制限しておいての悲哀のように思えて、その悲哀はいささか平板の感をぬぐえない気がします。

 『評釈』も「その人(薫)に熱がないのが、押し切ってこないのが、姫を不幸のままにおく」と言います。お互いの問題なのです。

 昼寝から目を覚ました中の宮は「とても美しくあでやかで、少しも物思いをする様子もなさっていない」で、思いのほか元気なようです。大君と対照的にみえますが、内心の悲しみにも拘らず、それを覆い隠すほどのあでやかさだということなのでしょう。

 夢に見た父宮の話をすると、大君は、自分は長く見ていないと泣き出します。するとさすがに、さっきまで「少しも物思いをする様子もなさっていな」かった中の宮も、それに誘われて、ということでしょうか、姉と一緒に「ひどく」泣きだします。

 とは言え、「最近、明け暮れ…」は匂宮の結婚のことを知っている大君の気持ちで、中の宮の思いとは思えません。》

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