【現代語訳】

 この方もあの方も、たしなみ深いご様子を聞いたり見たりなさると、大将もたいへんに中を御覧になりたくお思いになる。対の上が、昔見た時よりも、ずっと美しくなっていらっしゃるだろう様子が見たいので、心が落ち着かない。
「宮を、もう少し運勢がよかったなら、自分の妻としてお世話申し上げられたであろうに、まったくゆっくり構えていたのが悔やまれることだ。院は、度々そのように水を向けられ、蔭でおっしゃっていられたものを」と残念に思うが、少し軽率なようにお見えになるご様子に、軽くお思い申すと言うのではないが、それほど心は動かなかった。
 こちらの御方を、何事につけても手の届くすべなく、高嶺の花として長年過ごして来たので、

「ただ何とかして、義理の親子の関係として、好意をお寄せ申している気持ちをお見せ申し上げたい」と、そのことばかりが残念に嘆かわしいのであった。むやみな、あってはならない大それた考えなどはまったくおありではなく、実に立派に振る舞っていらっしゃった。

 

《源氏が女性たちのところを覗き歩いている様子を簀子で感じながらの夕霧の思い、ということなのでしょうか。

彼は、中の女性たちの様子を想像します。といっても、女御は幼なじみのようによく知った仲ですし、明石の御方は彼からすれば身分卑しい出とあってでしょうか、結局関心は紫の上と、女三の宮です。

しかし、姫宮については、あの蹴鞠の日のいかにも軽率な振る舞いが第一印象として記憶に鮮明で、すでにその関心も遠のき、薄らいでいるようで、何と言っても、野分の折に垣間見た(野分の巻第一章第二段)、紫の上の姿に優る人はないように思われるのでした。

それにしても、あれはもう十一年前のことになりますから、当時二十八歳だったその人が「昔見た時よりも、ずっと美しくなっていらっしゃるだろう(原文・見しをりよりも、ねびまさりたまへらむ)」と思う感覚は、ちょっとあり得ない気がするのですが、どんなものでしょうか。

ともかく彼は、義母を理想の女性として思い描き、自分の好意を伝えたいのですが、その機会がないことを改めて嘆く思いです。この時、源氏の藤壺に対するような思いを決して抱かないというのが、この人の、この物語の中での普通の人である所以です。

『評釈』がここで、この夕霧のキャラクターを細かく分析して「理性が感情の上に立つような人間は、その冷静な頭が明確に物の良否(紫の上と女三の宮の上下)を区別する」と言いますが、それが普通の人間なのであって、ちょっといい女性を見れば、それがどういう立場の人であろうと声を掛けずにはいられないという、この物語の多くの男性の方が、私たちから見れば、ずいぶん特異に見えます。

もちろん、だからこそ物語が成り立ち、面白いのですが、その中でこの夕霧のような理性の人の存在は、女性からすればもの足らない点はあるにしても、「実に立派に振る舞っていらっしゃった(原文・いとよくもてをさめたまへり)」という点で、その役割もあるというものです。》

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