【現代語訳】
ご主人の院は、
「寄る年波とともに、酔泣きの癖は止められないものだな。衛門督が目を止めてほほ笑んでいるのは、まことに恥ずかしくなりますよ。そうは言ってももう暫くの間だろう。さかさまには進まない年月だ。老いは逃れることのできないものだよ」と言って視線をお向けになると、誰よりも一段とかしこまって塞ぎ込んで、本当に気分もたいそう悪いので、試楽の素晴らしさも目に入らない気分でいるのだったが、その人をつかまえて、わざと名指しで、酔ったふりをしながらこのようにおっしゃる。
冗談のようであるが、ますます胸にこたえて、杯が回って来るのも頭が痛く思われるので真似事だけでごまかすのをお見咎めになって、杯を持たせたまま何度も無理にお勧めなさるのでいたたまれない思いで困っている様子は、普通の人と違って優雅である。
すっかり具合が悪くなって我慢できないので、まだ宴も終わらないのにお帰りになったが、そのままひどく苦しくなって、
「いつものようなひどい深酔いをしたのでもないのに、どうしてこんなに苦しいのであろうか、居心地が悪いと感じていたためか、上気してしまったのだろうか。そんなに怖気づくほどの意気地なしだとは思わなかったが、何とも不甲斐ない有様だった」と自分自身思わずにはいられない。
一時の酔いの苦しみではなかったのであった。そのまままひどくお病みになる。
《さて、問題の箇所です。
式部卿宮や老いた上達部が孫たちの舞を見て涙を流しているのを見て、若者たちは笑っていたのでしょうか。その様子を横で見ていた先ほどまでの大人の態度を一変させて、「酔ったふりをしながら」柏木に、絡みました。
急にどうしたのでしょうか。せっかく柏木のお陰もあって、好い一日になって、今楽しい場だというのに。柏木が恐縮している間は、不快な思いを抑えることができていたけれども、それがいささかでも気を許していい気持ちそうにしているのは断じて許せない、ということなのでしょうか。
今、あなた方は笑っているが、そういうあなた方もすぐに私たちのような老人になるのだ、…。
源氏は、見ておれ、思い知らせてやる、と言っているわけではありません。ただ、お前たちもいずれ私たちのような思いをすることになるのだ、と言っているに過ぎません。『構想と鑑賞』は「ひどい皮肉」、「明らかな当てこすり」と言いますが、所詮は嫌がらせの域を出ません。前掲の『の論』所収「柏木の生と死」には、石田穣二の次のような説が引用されています。
「少なくとも言葉の語る所、源氏の立場は全くの受身である。柏木への態度としてみれば、寛容と言うより他ない。より即して言へば、柏木に対する敗者の意識、この意識をうべなう気持がある」云々。
柏木は、その日源氏の優しく見える対応を受け、おそらく、明らかにお役に立てたという気がして、かろうじて立ち直りかけたところだったのですが、その皮肉とも言えないような自虐的嫌みによって心をずんと刺されました(彼の耳には、いい気になるな、私は結構こたえているのだ、決して忘れないぞ、といったふうにも聞こえたということなのでしょうか)。
柏木のおびえは、「一面には柏木の小心のためであり、他面では源氏に憎まれては世に立って行けないというほど、源氏が偉大なためである」と言い、「密通そのものはまだよいとして、(柏木にとって)対手がわるかった」と言います。
源氏は、藤壺とのことがあってもなお、表向きは平然として父・帝と対話をしていましたが、もし知られていたら同じようにできたでしょうか。いや、知られないようにするところが源氏の見事さで、その結果父に余計な心痛をかけないで済んだとも言えます。
そうだとすると、若い二人が密通を知られてしまうような未熟者同士だったために、源氏と二人の三人ともが傷つくことになってしまったという点で、「対手がわるかった」というのは、その三人のことということになりそうです。
宴の席で柏木は追いつめられ、ほうほうの体で家(落葉宮邸であったことが次段でわかります)に帰ったものの、そのまま寝付いてしまったのでした。
さて、少し長くなりますが、ここで考えてみると、若菜の巻になって物語の展開に大きな変化が生じています。
それは、これまで事件を起こすのは、すべて源氏自身だったのに対して、この巻では、すべての事件が彼以外の別の人によって引き起こされ、源氏はそれに巻き込まれながら、脇で見ていることしかできなくなっている、という点です。
これ以前の事件は、女性関係はもとより、須磨流謫さえ追いつめられていたとは言え、自分で去ることにして、行き場所も自分で決めて行動し、それによって物語が展開してきたのでした。
ところが、若菜の巻では、その冒頭が朱雀院の事情から語り始められているのが象徴的と言えるかも知れませんが、頑なに拒んでいた四十の賀の祝は玉鬘のサプライズによって突破され、女三の宮の降嫁も院の懇願があってこそのことでした。蹴鞠の日の垣間見は猫のいたずらという不可抗力によるものでしたし、柏木の密通も紫の上の看護の隙をつかれて彼の意思の働きようのない状況の下でした。そして悪阻に苦しむ女三の宮を見舞いに来て帰ろうとする源氏に女三の宮が、『光る』が言うところの「これだけいい歌を詠まなければ」、源氏は泊まることもなく、したがって柏木の手紙を見つけてしまうこともなかったはずなのでした。
結局彼がこの二巻で自らの意志でしたことと言えば、女三の宮降嫁の要請に「うん」と言ったことと、この宴席で皮肉を言ったことくらいだけと言ってもいいので、ほとんどが起こったことに追われて対応しているだけです。
その結果、源氏は、自分が若い頃に犯した罪の罰を、そのままの形で引き受けることになりました。彼自身は、今、そのことをそれほどには意識していないようですが、他人の起こす出来事の中で翻弄される姿は、まさにその因果応報が天の摂理であることを如実に現していると言っていいでしょう。
もちろんそれは単に勧善懲悪というような意味ではなくて、人の生はすべてある逃れがたい摂理の中に絡め取られてあるのだ、という恐るべき認識に繋がるものなのです(もっとも逆に、太宰治が抱いた「もしも、あのドスト氏が、罪と罰を…アントニムとして置き並べたものとしたら?」(『人間失格』)という疑問には、別の恐ろしさもありますが、それは別の問題です)。
ともあれ今ここで源氏は、この密通問題を表に出せない以上、柏木にも女三の宮に対しても同じように何もできません。彼はもうすっかり前半生の「錬金術師のようなスーパーヒーロー」(若菜上の巻第二章第一段)ではなくなって、せいぜいこういう嫌みを言って鬱憤を晴らすことしかできない、という事態になっています。
今、物語を主導しているのは、朱雀院の愚かしさと若い二人のそれぞれの未熟さと至らなさ、つまり人間の弱さなのであって、かつての「スーパーヒーロー」がそれに振り回されているといった事態なのです。》