【現代語訳】

 いつもは時間のたつのも長く感じられ、霞んでいる山際を眺めながら物思いに耽っておられたのに、日の暮れて行くのが侘しいとばかり思い焦がれていらっしゃる方に惹かれ申して、まことにあっけなく暮れてしまった。

誰に妨げられることのない長い春の日に、いくら見てもいて見飽きず、どこがと思われる欠点もなく、愛嬌があって、慕わしく魅力的である。その実は、あの対の御方には見劣りがするのである。大殿の姫君の女盛りで美しくいらっしゃる傍に並べたら、お話にもならないほどの女なのに、二人といないと思っていらっしゃる時なので、ただもうまだ見たこともないすばらしい女だと見ていらっしゃる。
 女はまた一方、大将殿をとてもすっきりした感じに見えて他にこのような方がいるだろうかと思っていたが、

「顔立ちが整い輝くような美しさは、この上なくいらっしゃることだ」と思う。
 硯を引き寄せて、手習などをなさる。たいそう美しそうに書き遊んで、絵などを上手にたくさんお描きになるので、若い女心には、気持ちも移ることであろう
「思うにまかせず、お逢いになれない時は、この絵を御覧なさい」と言って、とても美しそうな男と女が、一緒に添い臥している絵を描きなさって、
「いつもこうしていたいですね」などとおっしゃるのにも、涙が落ちる。
「 長き世をたのめてもなほかなしきはただ明日知らぬ命なりけり

(末長い仲を約束してもやはり悲しいのは、ただ人の命が明日のことも分からないか

らなのですよ)
 まったくこのように思うのは、縁起でもないことだ。思いのままに訪ねることがまったくできず、万策めぐらすうちに、ほんとうに死んでしまいそうに思われる。つれないご様子だったのに、なまじどうして探し出したりしたのだろうか」などとおっしゃる。

女は、濡らしていらっしゃる筆を取って、
「 心をばなげかざらまし命のみさだめなき世と思はましかば

(命だけが定めないこの世と思うのなら、心変わりを嘆かなくてもいいでしょうに)」
とあるのを、

「心変わりするのを恨めしく思うようだ」と御覧になるにつけても、大変かわいらしい。
「どのような人の心変わりを見てなのか」などと、にっこりして、大将がここに連れて来られた当時のことを、繰り返し知りたくなって、お尋ねになるのを、つらく思って、
「申し上げられませんことを、このようにお尋ねになるとは」と、恨んでいる様子も、若々しい。自然とそれは聞き出そう、とお思いになる一方で、言わせたく思うのも困ったものである。

 

《「右近の大活躍に守られて、内は二人だけの世界」(『評釈』)です。

 そこで浮舟は、昨夜思いに上った中の宮や母のことももはや思い出すことなく、まるで合意の上の幸せな新妻ように、匂宮に寄り添っています。

彼女は薫を「とてもすっきりした感じに見えて(原文・いときよげに)」と言い、匂宮を「輝くような美しさ(原文・にほひきよらなる)」と言っていますが、『光る』が「きよげ」は「二等の美」で「きよら」は「第一等の美」であるとして、「大野・彼女の心はもう匂宮に傾いてしまった」のだと言います(第四章第一段に関連事項)。

 それを『構想と鑑賞』は「多情で、節操のないさま」と言いますが、彼女に非があるのではなくて、前段の言葉で言えば「(匂宮の)魅力の磁場に引き込まれ」ているのだと考えなければならない所でしょう。作者も「若い女心には、気持ちも移ることであろう」と同情的です。

 もしそういうことを言ってよければですが、作者は女性一般の中に多情性が潜んでいると考えたのではないでしょうか。浮舟が多情なのではなくて、匂宮が女性の持つ多情性を浮舟から引き出してしまった、というようなことのようにも思われます。

 思い返すと、源氏をめぐる女性は、みなひたすら源氏一人を慕い、それぞれがそれ故の苦悩を背負いました。しかし、そうばかりではない思いを、作者は自分の中に発見したのかも知れません。

当時、男性の多情は、当の女性にはたまらないものでも、社会的には当たりまえで、仕方のないものとして見過ごされていた一方で、女性のそれは非なるもので、さればこそ、それを具現する浮舟は東国の卑しい田舎育ちであることが必要だったのだ、だから「(六の君と比べたら)お話にもならないほどの女なのに」という、この美しかるべき場面に水を差すような草子地が必要だったのだ、などというのは、思い付きの憶測にすぎませんが…。

 さて、匂宮の方は、訪ね求めてみたら思いの外に素晴らしい女で、すっかり「思い焦がれて」しまいました。それはいいのですが、その相手が実は取るに足らない女なのだとことさら作者が語っているということは、恋というものがそういうものなのだということとは別のことで、それは作者の匂宮に対する批判でもあるでしょう。

ここはただの濡れ場ではなく、作者の二人に対する批評の場にもなっているようです。

しかし、当の二人は、そういうギャラリーの目には関わりなく、切なげに歌を詠みかわし、そこから後は、愛の戯れがそのまま愛の高揚という、まさに閨中の楽し気な睦言です。どうぞお好きなように、…と言っておきます。》

にほんブログ村 本ブログ 古典文学へにほんブログ村 教育ブログ 国語科教育へにほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ