【現代語訳】2
「ここ数年というものは、同じこの世にうろうろと生きてきましたが、何の何の、生きながら別世界に生まれ変わったように考えることにしまして、格別変わった事がない限りは、お手紙を差し上げたり戴いたりしないでおります。
 仮名の手紙を拝見するのは、時間がかかって念仏も怠けるようで、無益と考えて、お手紙を差し上げませんでしたが、人伝てに承りますと、姫君は東宮に御入内なさって、男宮がご誕生なさったとのこと、心から喜び申します。
 そのわけは、私自身このようなつまらない山伏の身で、今さらこの世での栄達を願うのではありません。

過ぎ去った昔の何年かの間、未練がましく六時の勤めにも、ただあなたの御事を心にかけ続けて、自分の極楽往生の願いはさしおいて願ってきました。
 あなたがお生まれになろうとした、その年の二月のある日の夜の夢に見たことは、私が須弥山を右手に捧げ持っている、その山の左右から、月と日の光が明るくさし出して世の中を照らす、私自身は山の下の蔭に隠れてその光に当たらない、山を広い海の上に浮かべ置いて、小さい舟に乗って西の方角を指して漕いで行く、というものでした。
 夢から覚めてその朝から、物の数でもないわが身にも期待する所が出て来ましたけれども、どのようなことによって、そんな大変な幸運を待ち受けることができようかと、心中に思っていましたところ、そのころからあなたが孕まれなさって以来今まで、世俗の書物を見ましても、また仏典の真意を求めました中にも、夢を信じるべきことが多くありましたので、賎しい身の懐の内ながらも、恐れ多く大切にお育て申し上げましたけれども、力の及ばない身に思案にあまって、このような田舎に下ったのでした。
 そしてまたこの国で沈淪しまして、老の身で都に二度と帰るまいと諦めをつけて、この浦に長年おりましたその間も、あなたに期待をおかけ申していましたので、自分一人で数多くの願を立てました。そのお礼参りが、無事にできるような願いどおりの運勢に巡り合われたのです。
 姫君が国母とおなりになって、願いが叶いなさったあかつきには、住吉の御社をはじめとして、お礼参りをなさい。もはや何を疑うことがありましょうか。
 この一つの願いが近い将来に叶うことになったので、遥か西方の十万億土を隔てた極楽の九品の蓮台の上の往生の願いも確実になりましたので、今はただ阿弥陀仏が蓮台を持っての来迎を待つ間、その夕べまで水も草も清らかな山の奥で勤行しようと思いまして、入山致します。
  光いでむ暁ちかくなりにけり今ぞ見し世の夢語りする

(日の出近い暁となったことよ、今初めて昔見た夢の話をするのです)」
とあって、月日が書いてある。

 

《明石入道の長い手紙で、「初めの「何の何の(原文・何かは)」は「『何かは聞かむ』ほうっておこう」(『評釈』)の意で、出家の身でなお「この世にうろうろと生きて」いることを、恥じながら開き直ろうとしている気持を言っているということのようです。

「仮名の手紙を拝見するのは…」と言っていますが、確かに、私たちでも仮名文字だけの文章は読みにくいのですから、漢文に馴れた人にはなおさらと思われます。しかし、妻子の手紙に対してそのように言うのは、その事情以上に、彼の世を離れたいという強い意志が感じられます。

さて、手紙の本題です。実は彼は、あるとき大変な夢を見たと言います。それは、須弥山(「仏教の世界観で、世界の中心にあり、大海中に聳える山」(『集成』))を右の手に捧げて(「女は、右をつかさどるとされるところから、明石の上を生むこと」(同))、「その山の左右から月と日の光が明るくさし出して世の中を照らす」(「月は皇后、日は帝を喩えるところから、明石の上により皇后、東宮が生まれる予兆」(同))という、大変な夢でした。

そうして間もなく、母が身ごもり、果たせるかな、女であるあなたがお産まれになった、そこで自分は何としてでもあなたをそういう立場に据えるべく、努めることにした。「力の及ばない身に思案にあまって」というのは、そのためには財力が足らなかったということのようです。

昔、良清が語った(若紫の巻第一章第二段2節)ところによれば、彼は都で「近衛の中将」(従四位下相当の官)だったのですが、その頃は「(貴族や官人の給与の)財源が、九世紀後半にはすでに慢性的な窮乏をきたして」おり「中下級官人に対しては数年にわたって延滞するというような事態すら生じていた」(『人物論』所収「明石入道の人物造型」)ということで、入内などということには莫大な資金が必要でしょうから、これでは到底入内を覗うようなことにはならないでしょう(こうした現実の財政の窮乏からみると、物語の中での源氏周辺の生活はあまりに華麗に思えるのですが、当時の所得格差は、あるいは身分以上に苛烈だったということなのでしょうか、あるいは、ノスタルジーから古きよき時代に舞台を設定したということなのでしょうか)。

ともあれ、中央官庁の窮乏に対して「受領となることが巨富を得る道であったことについては、いまさら縷説を要しまい」(同)と言われるほどであったようで(加えて、一徹偏屈であったらしい入道にとっては宮仕えが面白くないものであったこともあったのでしょうか)、思いきって「このような田舎に下った」ということなのでした。その播磨の国は幸いに大国であり、しかも産業、交易の盛んな地で、彼はそこで名を捨て実を取って、莫大な資産を手にすることができ、それを背景に娘のために「自分一人で数多くの願を立て」たのだった、というわけです。

その願いがかなった以上、あの夢のお告げにあったように「私自身は山の下の蔭に隠れて、その光に当たらない、山を広い海の上に浮かべ置いて、小さい舟に乗って、西の方角を指して漕いで行く」のが仏の示された道であり、また、彼自身としても望ましい道だったでしょう。

それにしても、あの若紫の巻の時から、作者はこの手紙の内容を予定していたように見える自然な話で、構想上当然のこととは言え、みごとな人物造型です。作者として、大きな関心を持った実在の人があったのではないか、などと思ってみます。》

にほんブログ村 本ブログ 古典文学へにほんブログ村 教育ブログ 国語科教育へにほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ