【現代語訳】

「そうかといって、こうしてばかりいられようか。人が聞いて噂にすることも当然あるだろう」ときまり悪く、ここの人目も気におなりになるので、
「内々のお気づかいはこのおっしゃることに適うようにもして、暫くの間はお気持ちに逆らわないことにしよう。夫婦らしからぬ様子がとても情けないことだし、またこうだからといってこれきり参らなかったら、宮のご評判がどんなにかおいたわしいことだろうか。一方的にお考えになって、子供じみているのが困ったことだ」などこの女房をお責めになると、もっともだとも思って、見るのも今はお気の毒でもったいなくも思われる様子なので、女房を出入りさせなさる塗籠の北の口から、お入れ申し上げてしまった。
 ひどく驚いて情けないと思い、お側にいる女房のこともなるほどこのような世間の人の心だからこれ以上ひどい目に遭わせるに違いないと思って、頼りにする人もいなくなってしまった我が身を、かえすがえす悲しくお思いになる。
 男君は、いろいろと納得なさるような条理をお話し申し上げ、言葉数多くしみじみと気を引くようなことを精一杯申し上げなさるが、ただもう恨めしくいやだとお思いである。
「まったくこのように何とも言いようもない者にお思いになられてしまった身のほどは、例えようなく恥ずかしいので、あってはならない思いが染みついたのも迂闊にも悔しく思われますが、『とり返すもの(取り返せる間柄)』でもないことで、何の立派なご評判がございましょうか。もう仕方のないこととお諦めください。
 思い通りにならない時、淵に身を投げる例もあるそうですが、ただこのような思いを『深い淵』だとお思いになって、飛び込んだ身だとお思い下さい」と申し上げなさる。

単衣のお召し物をお髪ごと被って、できることといっては声を上げてお泣きになる様子がたしなみ深く、お気の毒なので、
「まったく困ったことだ。どうしてまったくこんなふうにまでお思いになるのだろう。強情を張っている人でも、これほどになってしまえば、おのずと気持のゆるむ様子もあるのだが、石や木よりもほんとうに心を動かさないのは、前世の因縁が薄いために恨むようなことがあるが、そのようにお思いなのだろうか」とお思いになると、あまりのことで情けなくなって、三条の君がお悲しみであろうこと、昔も何の疑いもなくお互いに愛情を交わし合った当時のこと、長年にわたりもう安心と信頼し打ち解けていらっしゃった様子を思い出すにつけても、自分のせいでまことにつまらなく思い続けられるので、無理にもお慰め申し上げなさらず、溜息をつきながら夜をお明かしになった。

 

《孤立無絵の塗籠籠城でしたから、早晩結果は見えていますが、それにしても展開があっけなく、またしても「この女房(原文・このひと」(小侍従)が夕霧の懇請を聞き入れて、その夜のうちに塗籠に導いてしまったのでした。

源氏が藤壺との密通を冒した時(若紫の巻第二章第一段)は、「どのように手引したのだろうか」と、女房の手引きの詳細はぼかされていましたが、ここでは柏木と女三の宮との時と同様に、きわめて現実的に描かれて、その結果何とも味気ない段取りになります。

そして念願かなって目指す女性を目の前にした時に、源氏は以後後朝の歌まで何の言葉もなく、夢幻の中に時間が過ぎたのでしたが、ここはそこに到るまで延々と男君の口説きが始まります。『評釈』はそれを「しみじみと涙を浮かべて我が恋をうったえ、…技巧の限りを尽くす」と言っていますが、彼が一所懸命に語っているところは認めるにしても、語れている範囲にはそういうものは見当たらないような気がします。

それどころか、「何の立派なご評判がございましょうか。もう仕方のないこととお諦めください」と、この人の例によって押しつけがましく、世間体を質に取った口説きばかりが目に付かないでしょうか。

彼の優しさと気配りからではありますが、時鳥を「鳴かせてみしょう」という技量があるでもなく、「鳴くまで待とう」と徹するでもなく(さっき「何年でもきっとお待ちしましょう」と言うには言ったのですが)、どうもうじうじと、といった感が免れないように思います。

それに対して宮は、単衣の衣を頭からかぶって、ただ泣くしかありません。

語りながらその様をさすがに傷ましい気持で見ていた夕霧は、まるですっかり醒めた気分になってしまったかのように、あろうことか妻が家で悲しんでいるだろうことを思い出してしまいました。

「自分のせいでまことにつまらなく思い続けられ(原文・わが心もて、いとあぢきなう思ひ続けられ)」てきて、「溜息をつきながら夜をお明かしになった」というのでは、もはや情趣もロマンもなく、ここで男君が安煙草にでも火を点けたりしたなら、もうそれは近代日本の破滅型私小説をネタにした映画の場末のアパートの一室の場面そのものになってしまいそうです。》

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