【現代語訳】

 対へお渡りになったので、のんびりとお話など申し上げていらっしゃるうちに、日も暮れかかって来た。昨夜、あの一条宮邸に参った時に、どんなご様子でいらっしゃったかということなどをお話し申し上げなさるのを、ほほ笑んで聞いていらっしゃる。気の毒な故人に関わりのある話の節々には、相槌などをお打ちになって、
「その想夫恋を弾いた気持ちは、なるほど、昔の風流の例として引き合いに出してもよさそうなところだが、女はやはり、男が心を動かすようなたしなみや風雅もいい加減なことでは表わすべきではないことだと、考えさせられることが多いな。
 亡くなった人への情誼を忘れず、このように末長い好意を先方も知られたとならば、同じことならきれいな気持ちで、何かと関わり合って面白くない間違いを起こさないのが、どちらにとっても奥ゆかしく、見よいことだろうと思う」とおっしゃるので、

「そのとおりだ。他人へのお説教だけはしっかりしたものだが、このような好きごとの道はどうかな」と見申しあげなさる。
「何の間違いがございましょう。やはり、無常の世への同情から世話をするようになりました方に、当座だけのいたわりで終わったら、かえって世間にありふれた疑いを受けましょうと思いまして。
 想夫恋は、ご自分の方から弾き出しなさったのなら、非難されることにもなりましょうが、ことのついでに、ちょっとお弾きになったのは、あの時にふさわしい感じがして、興趣がございました。
 何事も、人次第、事柄次第の事でございましょう。年齢なども、だんだんと若々しいお振る舞いが相応しいお年頃ではいらっしゃいませんし、また、冗談を言って好色がましい態度を見せることに馴れておりませんので、お気を許されるのでしょうか。大体が優しく無難なお方のご様子でいらっしゃいました」などと申し上げなさっているうちに、ちょうどよい機会を作り出して、少し近くにお寄りになって、あの夢のお話を申し上げなさると、すぐにはお返事をなさらずにお聞きになって、お気づきになることがある。

 

《子供たちの声で賑やかな寝殿から、源氏と夕霧は東の対に一緒に行って、のんびりとした父子の話です。

落葉宮を尋ねた話をすると、源氏は「ほほ笑んで(原文・ほほゑみて)」聞いていました。ここ、『集成』は「にやにやして」と訳していて、そうすると夕霧の自分でも気づいていない(であろうと思われる)下心を、第三者的に面白がって見ている感じで、以下の源氏の教訓の真面目な調子と合わないように思います。『評釈』の「にこにこと」、『谷崎』の「ほほえんで」の方がいいようです。

源氏は落葉宮が想夫恋を弾いたことをいささか軽率だと思ったようで、一言批判しておいて、あわせて夕霧に「きれいな気持ちで」関わるようにと、もっともらしい訓戒です。

読者は当然あなたに言う資格はなかろうと思いますが、夕霧の「他人へのお説教だけはしっかりしたものだが」、という内心の声がおかしく、しかし格別反撥というのではなくて、このあたり、どちらが主役か、と思わせる、大人の対応です。

そして夕霧は、内心の思いだけでなく、父の懸念について説明(反論?)もします。これまで源氏の前ではほとんどその話を承るばかりだった彼も、いつのまにか大きく成長していたようです。

「当座だけのいたわりで終わったら」あらぬ疑いを受けるだろう、というのも、実直な彼らしい考え方で、色めいた気持ではなければ長続きするのだ、と言っているようです。源氏の花散里や末摘花を思い描いているのでしょうか。

あわせて宮の弁護も忘れません。「想夫恋」を宮の方から弾いたのなら、寂しさを訴えて慰めてほしいと言った形になるでしょうが、自分の方から弾いたのに対してちょっと合わせただけだから、場に合った感じでなかなか好かったですよ。…。

それにしても、「何事も、人次第、事柄次第の事でございましょう」は、父親に対してちょっと生意気というか、背伸びした感じで、大人びたふうな言葉がかえって彼の若者らしさ、未熟さを感じさせます。

しかし、彼としてうまく話ができたという気持で、やおら膝を進めて、本題の笛の話をしたのでした。》

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