【現代語訳】

「この子に託して、とりあえず少しお伝えください」と申し上げなさると、手紙を書いてお与えなさる
「時々は山においでになって遊んで行きなさいね。縁のないことのようにお思いになってはならないわけもあるのです」と、お話しなさる。

この子は理解できないが、手紙を受け取ってお供して出る。

坂本になると、ご前駆の人びとがそれぞれ少し離れて、

「目立たないように」とおっしゃる。

 小野では、たいそう青々と茂っている青葉の山に向かって、気の紛れることなく、遣水の螢だけを昔が偲ばれる慰めとして眺めていらっしゃると、いつものように遥か遠くに谷の見やられる軒端から、前駆が格別の先払いをしてたいそうたくさん灯している火の揺れ動く光が見えるといって、尼君たちも端に出て座る。
「どなたがおいでになるのだろう。ご前駆などもとても大勢に見える」
「昼、あちらに引干しを差し上げた返事に、『大将殿がいらっしゃって、ご饗応の事が急になったので、ちょうどよい時であった』と、言ったが」
「大将殿とは、今上の女二の宮の夫君のことでいらっしゃろうか」などと言うのも、とてもこの世離れして、田舎じみていることよ。

ほんとうにそうなのであろうか、時々、このような山路を分けていらしたとき、はっきりその人と聞き分けられた随身の声も、ふと中に混じって聞こえる。
 月日の過ぎ行くままに、昔のことがこのように忘れられないでいるのも、

「今さらどうなることでもない」とつらい気持ちになるので、阿弥陀仏に思いを紛らわして、ますます無口になっている。横川に行き来する人だけが、この近辺では身近な人なのであった。

 

《僧都が童を誉めたのを聞いて、もう今日は仕方がないと帰ろうとしていた薫が、すかさず「この子に託して…」と最後の一押しをします。

すると、何と、僧都は、急転直下、あっさり手紙を書いてくれたのでした。

一体何があったのでしょうか。「申し上げなさると」と「手紙を書いてお与えなさる」の間に何の説明もないのが不思議です。この子に手紙を託すというアイディアが、どうしてこれほどに彼の気持ちを変えたのか、よく分かりません。

僧都は手紙を渡して、童にやさしく語りかけます。この子は、とっくに、薫が改めて語り始める最初(前段冒頭)にすでに僧都に「この子が、あの女人の近親なのですが…」と紹介しているのですが、その時には僧都にはなんの反応もありませんでした。それを、今ことさらにこういうふうに書かれると、どうしたのだろうと思ってしまいます。『評釈』も戸惑ったふうに「この子をものにしたい気でもあるのか」と言いますが、まさか…。

しかしそんなことまで考えさせるくらいに、やはりどうも、何か変です。

が、それは読者の方の話で、薫にとっては手紙さえ書いてもらえばいいわけです。彼はそれを童に持たせて、小野の里に下って行きました。

もう日も暮れて、一行の松明の灯りが揺れながら通って行きます(次の段で、薫は今日は寄らないで帰るのだということが分かります)。

庵では何ごとかとみんなが端近に出てざわめきます。

そう言えば、今日昼にお山に薫大将様がおいでだったそうですから、あの方のお通りなのでは…、という話を聞いて浮舟の胸はどきりとしました。

そうするうちに次第に近づいてくると、なんとその中に、宇治で聞き知った薫の随身の声が聞こえるではありませんか。彼女は思わず違っていてほしいと(いや、そうであってほしいと思わなかったでしょうか)、「阿弥陀仏」を唱えて、身を縮めます。

この道を通る人は、横川へ往来する人以外にはないのです、と作者は念を押します。もう薫の一行に間違いないという意味なのでしょう。そんなことは読者には分かったことですが、ここは浮舟の気持を言っているのであって、原文では「なむ…ける」の強意と「気付き」の表現が、彼女の驚きを表現しています。》

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