【現代語訳】

 ようやく待っていた秋になって、世の中が少し涼しくなってからは、ご気分も少しはさわやかになったようであるが、やはりどうかすると何かにつけ悪くなることがある。といっても『身にしむばかり』にお思いになられる秋風ではないけれども、涙でしめりがちな日々をお過ごしになる。
 中宮は、宮中に帰参なさろうとするのを、もう暫くは御逗留をとも、申し上げたくお思いになるけれども、出すぎているような気がし、宮中からのお使いがひっきりなしに見えるのも気になるので、そのようには申し上げなさらないのだが、あちらにもお渡りになることができないので、中宮がお越しになった。
 恐れ多いことであるが、いかにもお目にかからずには甲斐がないということで、こちらに御座所を特別に設えさせなさる。

「すっかり痩せ細っていらっしゃるが、この方が却って高貴で優美でいらっしゃることの限りなさも一段とまさって素晴らしいことだ」と、今まで匂い満ちて華やかでいらっしゃった女盛りは、かえってこの世の花の香にも喩えられていらっしゃったが、この上もなく可憐で美しいご様子で、まことにかりそめの世と思っていらっしゃる様子は、他に似るものもなくおいたわしく、わけもなく物悲しい。

 

《「ようやく待っていた秋になって(原文・秋待ちつけて)」には、「暑い夏の間、一筋に秋の到来を待っていた気持が出ている」と『評釈』が言いますが、『徒然草』に「家の作りやうは夏をむねとすべし。冬はいかなる所にも住まる」(第五十五段)と言っているように、京都の夏は大変だったようで、その夏を何とか乗り切って、待ちわびた秋が訪れました。

 しかし容態は一進一退で、気持だけはどうしても湿りがちです。

 中宮には帝からの帰参督の促があるのですが、中宮は自分でも去りがたく思い、また紫の上の気持ちを思って何となくぐずぐずと日を延ばしていて、帝もそれを無理強いは出来ないでおられるようです。

 中宮が下がってきた時は部屋まで出向いて迎えたのでしたが、今はそれもかなわなくなっているようで、しきたりを措いて中宮の方から西の対を訪ねてきました。

 中宮の目には紫の上の美しさが、やつれて一層素晴らしく見え、こんなにお美しいのにと思うと世の無常が常にも増して悲しく思われるのでした。

 この美しさを『評釈』は「あまりに盛りに匂っているものよりも、その盛りがかげりをみせた時、なおいっそうの深みのある美しさが輝くとする、この作者の美に対する感覚が表現されている」と言いますが、そこで忘れてはならないのは、紫の上が、彼女自身気がつかないままに、しかし読者には気づいている、『構想と鑑賞』の言う「源氏への愛情」(第一章第五段)を胸の奥深くに抱いていることから来る色香、華やぎが匂い出ているのではないでしょうか。彼女が枯れてしまわないのはそのことがあるからで、その美しさが表面的ではない理由もそこにあるのだと思われます。

 なお、前段の「いつものご座所にお帰りになる」について、ここでは中宮が紫の上の所に来るのですが、その場合「こちらに御座所を特別に設えさせなさる」と言っていることから考えれば、前段ではそういうことが書かれていませんでしたから、やはり、紫の上は寝殿で待っていたのではなく、彼女の方が中宮の所(東の対)に来ていたのだと考える方がよいように思われます。》

にほんブログ村 本ブログ 古典文学へにほんブログ村 教育ブログ 国語科教育へにほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ