【現代語訳】

 三月の十日なので花盛りで空の様子などもうららかで興趣あり、仏のいらっしゃる極楽浄土の有様が身近に想像されて、格別な信心のない人までが、罪障がなくなりそうである。

薪の行道の声も大勢集い響きあたりをゆるがすのが、声が途絶えて静かになった時でさえしみじみ寂しい気がなさるのに、ましてこの頃となっては何につけても心細くばかりお感じになられる。明石の御方に、三の宮を使いにして申し上げなさる。
「 惜しからぬこの身ながらもかぎりとて薪尽きなむことの悲しさ

(惜しくもないこの身ですが、これを最後として薪の尽きることを思うと悲しうござ

います)」
 お返事は、心細い歌意については後の非難も気にかかったのであろうか、当り障りのない詠みぶりであったようだ。
「 薪こる思ひはけふをはじめにてこの世に願ふ法ぞはるけき

(仏道への御思いは今日を初めの日として、この世で願う仏法ははるけく千年も祈り

続けられることでしょう)」

 一晩中、尊い読経の声に合わせた鼓の音が鳴り続けておもしろい。

ほのぼのと夜が明けてゆく朝焼けに、霞の間から見えるさまざまな花の色が、やはり春に心がとまりそうに咲き匂っていて、百千鳥の囀りも笛の音に負けない感じがして、しみじみとした情趣も感興もここに極まるといった時に、「陵王」の舞が急の調べにさしかかった終わり近くの楽の音がはなやかに賑やかに聞こえるのに対して、一座の人々が脱いで与えた衣装のさまざまな色なども、折からの情景にひたすら美しく見える。
 親王たちや上達部の中でも音楽の上手な方々は、技を尽くして演奏なさる。身分の上下に関わらず気持ちよさそうに、うち興じている様子を御覧になるにつけても、余命少ないとわが身をお思いになっていらっしゃるお心の中には、万事がしみじみと悲しくお思いになられる。

 

《立派な法会に、季節もそれにふさわしく、二条院寝殿は「仏のいらっしゃる極楽浄土の有様」です。

しかし紫の上の心は塞ぎがちです。

「薪の行道の声」は「この法会の花ともいうべき」場面(『評釈』)なのですが、紫の上は「(行道が)終わった後、すべての物音が一瞬とだえる。このとき法の道を求めることのつきせぬ悲しさが、紫の上の心にひろがる」(同)のでした。

ところで前段に続いてここの「さえ…まして」も逆ではないかと思われて、分かりにくいところです。

その後の「この頃」というのはいつを指すのでしょうか。

『評釈』は「(死後のことをあれこれ考える)この頃」と言い、『集成』も同様ですが、まだ法会のすべてが終わったわけではない(すぐ後に「一晩中、尊い読経の声」があったと続きます)のに、その間に一般的な感慨が入るのは不自然ではないでしょうか。

例えば「この頃」は、ここの冒頭の極楽浄土のような季節を指して、普通の季節に行われる行道の後の静寂だけでも「しみじみ寂しい」のに、「まして」それがこの季節の中で行われるのであってみれば、と続くのでしょうか。

また、前段同様、ここでも「まして」の前後を入れ替えれば、よく分かる話になります。ひょっとして、「まして」には今とは違う使い方があったのではないか、そんなことも夢想します。

昼の法会が終わって間が出来た時でしょうか、紫の上は明石の御方に歌を送りました。使いに立った三の宮は、二年ほど前から引き取って世話している後の匂宮(横笛の巻第三章第一段)で、この時五歳です。

明石の御方と交わした歌の「薪の尽きることを思う」というのは、「法華経序品に、仏の入滅を『薪尽き火滅するがごとし』とあるのによる」(『集成』)ものです。

それに対する御方の返歌が、「当り障りのない」詠みぶりであったというのは、ちょっと残念な気がしますが、目上の人の痛切な思いの吐露に対してはじっと耳を傾けることしかできないもので、したり顔になまじっかな反応はさけるべきものとも言えます。「決して節度を失わない明石の御方その人をあらわす」(『評釈』)というのが正しいでしょう。

夜明けまで続いた法会と楽の催しは「極楽浄土」の華やぎと賑わいで人々は衣を投げかけて歓を尽くしました。

ただ紫の上一人、それが華やかであればあるほど、自分の寿命を思って「万事がしみじみと悲しくお思いになられる」のでした。》

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