源氏物語 ・ おもしろ読み

ドストエフスキーの全著作に匹敵する(?)日本の古典一巻を 現代語訳で読み,かつ解く,自称・労大作ブログ 一日一話。

第一章 玉鬘の物語(一)

第四段 玉鬘への求婚

【現代語訳】
 噂を伝え聞いては、好色な田舎の男どもが懸想をして、手紙をよこしたがる者が、大勢いる。滅相もない身のほど知らずなと思われるので、誰も相手にしない。
「顔かたちなどは、まあ十人並と言えましょうが、ひどく不具なところがありますので、結婚させないで尼にして、私の生きているうちは面倒をみよう」と言い触らしていたので、
「亡くなった少弍殿の孫は、不具なところがあるそうだ」
「惜しいことだ」と、人々が言っているらしいのを聞くのも忌まわしく、
「なんとかして都にお連れ申して、父大臣にお知らせ申し上げよう。幼い時分を、とてもかわいいとお思い申していらっしゃったのだから、いくら何でもいいかげんにお見捨て申されることはあるまい」などと言って嘆きながら、仏神に願をかけて祈るのであった。
 乳母の娘たちも息子たちも、場所相応の縁も生じて住み着いてしまっていた。気持の上では急いでいたが、都のことはますます遠ざかるように隔たっていく。分別がおつきになっていくにつれて、世の中をとてもつらくお思いになって、「年三」の精進などをなさる。二十歳ほどにおなりになると、すっかり美しく成人されて、たいそうもったいない美人である。
 この人たちが住んでいる所は、肥前の国と言った。その周辺で少しばかり風流な人は、まずこの少弍の孫娘の様子を聞き伝えて、幾度断られても、なおも絶えずやって来る者がいるのは、とても大変なもので、うるさいほどである。

 

《年とともに美しく育っていく姫の噂を聞きつけて、懸想する「好色な田舎の男ども」が、次々に現れてきました。

しかし乳母の一家の誰もそういう男たちを相手にしません。亡くなった夫も律儀な人でしたが、この乳母ももちろん同様で、また周囲の女房たちも、亡くなった主人の言いつけをきちんと守ろうとしているのです。

そういう中で、乳母は、いつまでもこうしてはいられない、そろそろ都のお連れして、父大臣に会わせなくては、と思い始めます。

姫を筑紫に連れて来ることにしたのは、今父の大臣のところに連れて行こうにも、つてもないし、母の夕顔のことを訊かれても困るし、あまりに幼い姫をいきなり男手のところに残すことも出来ないと思ったからでした(第二段)が、こうして姫が大きく美しくなって来ているのですから、もう父大臣のところでも大事にされるでしょう。それにこちらには、この姫を守るべき乳母の夫がいないのです。

大臣の娘として、いつかきっと晴々しい姿にしたいと大事に育ててきた姫を、こんな田舎の男に嫁がせることは、乳母には考えられません。今は一日も早く都へと思うのですが、困ったことに「乳母の娘たちも息子たちも、場所相応の縁も生じて住み着いてしまって」いて、その者たちがしぶるので、ついつい時が経っていき、その一方で、姫も物心が付いて自分の身の不思議な運命を乳母からでも聞いたのでしょうか、その不遇を嘆くようになり、乳母の心はいっそう乱れます。

しかも求婚者は引きも切らず、中にはなかなか厄介な者もいたのでした。》

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第三段 乳母の夫の遺言

【現代語訳】
 少弍は、任期が終わって上京しようとするが、遠い旅路である上に、格別の財力もないこの人は、ぐずぐずしたまま思い切って旅立ちしないでいるうちに、重い病に罹って、死にそうな気持ちでいた時にも、姫君が十歳ほどにおなりになった様子が、不吉なまでに美しいのを拝見して、
「自分までがお見捨て申して、どんなにふうに落ちぶれなさることであろうか。辺鄙な田舎で成長なさるのも恐れ多いことと存じているのだが、早く都にお連れ申して、しかるべき方にもお知らせ申し上げて、ご運勢にお任せ申し上げるにしても、都は広い所だからとても安心であろうと、準備していたのに、自分はこの地で果ててしまいそうなことだ」と、心配している。

男の子が三人いるので、
「ただこの姫君を都へお連れ申し上げることだけを考えよ。私の供養など考えなくてもよい」と遺言していたのであった。
 あの方のお子であるとは、館の人たちにも知らせず、ひたすら「孫で大切にしなければならない訳のある子だ」とだけ言いつくろっていたので、誰にも見せないで、大切にお世話申しているうちに、急に亡くなってしまったので、乳母は悲しく心細くて、ひたすら都へ出立しようとしたが、亡くなった少弍と仲が悪かった国の人々が多くいて、何やかやと、恐ろしく気遅れしていて、不本意にも年を過ごしているうちに、この君は、成人して立派になられていくにつれて、母君よりも勝れて美しく、父大臣のお血筋まで引いているためであろうか、上品でかわいらしげである。気立てもおっとりとしていて申し分なくいらっしゃる。

 

《五年が経って乳母の夫・少弐は任が終わったのですが、財力が無く都に帰る費用の算段が必要だったらしく、「ぐずぐずしたまま」一、二年が経ったでしょうか。普通、官吏は地方に下って財を蓄えて帰京するはずですが、どうも彼はそうではなかったようです。

 彼は、十歳ほどになって、いよいよ美しくなった姫を見て、「都は広い所だから(つても多く期待できるので)とても安心であろう」と、何とか都に帰して、それなりのよい縁を見つけてやらなくてはならないと考えるのですが、時を見計らっているうちに、自分は病にかかってしまいました。そこで三人の息子達に自分の葬儀よりも姫を帰すことを考えよと命じます。

 大変律儀な人のようです。だから姫を誰の子と明かさないで自分の孫ということで世話をしていた、ということもあるのでしょうが、また、そういう人だから、融通が利かず財を蓄えるのも下手だったし、また「少弍と仲が悪かった国の人々が多く」ということにもなったのでしょう。

さて少弐は本当にそのまま亡くなってしまいました。後に残された乳母は、姫を連れて早く都に、と思うのですが、よい手蔓もなく途方に暮れて、また数年が過ぎます。

その間にも姫はさらにまた美しく、左大臣家の血を引いて上品にも育っていった、と言います。》

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第二段 玉鬘一行、筑紫へ下向

【現代語訳】

 母君のお行方を知りたいと思って、いろいろの神仏にお祈り申して、夜昼となく泣き恋い焦がれて、心当たりの所々をお探し申したが、結局尋ね当てることができない。
「それならばしかたがない。せめて姫君だけでも、母君のお形見としてお世話申そう。卑しい旅にお連れ申して、遥かなところにおいでになるのはおいたわしいこと。やはり父君にそれとなくお話し申し上げよう」と思ったが、適当な手立てもないうちに、
「母君のおられる所も分からないで、お訊ねになられたら、どのようにお返事申し上げられようか」
「まだ、十分に見慣れておられないのに、幼い姫君をお手許にお留め申されるのも、やはり気がかりなるでしょう」
「お知りになりながら、またやはり筑紫へ連れて下ってよいとは、お許しになるはずもない」などと、お互いに相談し合って、とてもかわいらしく、今から既に気品があってお美しいご器量を、格別の設備もない舟に乗せて漕ぎ出す時は、とても哀れに思われた。
 子供心にも、母君のことを忘れず、時々、

「母君様の所へ行くの」とお尋ねになるにつけて涙の止まる時がなく、娘たちも思い焦がれているが、舟路に不吉だと、泣く一方では制するのであった。
 美しい場所をあちこち見ながら、
「気の若い方でいらっしゃいましたが、こうした道中をお見せ申し上げたかったですね」
「いいえ、いらっしゃいましたら、私たちは下ることもなかったでしょうに」と、都の方ばかり思いやられて、寄せては返す波も羨ましく、かつ心細く思っている時に、舟子たちが荒々しい声で、「うらかなしくも遠く来にけるかな」と謡うのを聞くなり、二人とも向き合って泣いたのであった。
「 舟人もたれを恋ふとか大島のうらがなしげに声の聞こゆる

(舟人も誰を恋い慕ってか大島の浦に、悲しい声が聞こえます)」
「 来し方も行方も知らで沖に出でてあはれいづくに君を恋ふらむ

(来た方角も行方も分からない沖に出て、ああどちらを向いて女君を恋えばよいので

しょう)」
 遠く都を離れて、それぞれに気慰めに詠むのであった。
 金の岬を過ぎても、「我は忘れず」などと、明けても暮れても口ぐせになって、あちらに到着してからは、まして遠くに来てしまったことを思いやって、恋い慕い泣いては、この姫君を大切にお世話申して、明かし暮らしている。夢などにごく稀に現れなさる時などもある。同じ姿をした女などと一緒にお見えになるので、醒めた後気分が悪く病気になったりなどしたので、
「やはり、亡くなられたのだろう」と諦める気持ちになるのも、とても悲しい思いである。

 

《さて、ここからしばらくは、その姫君の方の話です。

まず筑紫下向に姫を伴うと話が決まる前のことです。母の夕顔を手を尽くして探しますが、行方が知れません。さてどうしようと、鳩首協議の趣です。何と言っても左大臣家御曹司の姫ですから、まずは父・頭中将に会わせようかとの話も出ますが、それも円満にはいかないだろうとなって、結局は伴っていくことにしての船出です。

 以前、末摘花の叔母が夫の太宰府大弐の勤務が決まった時に、彼女を連れて行こうとしましたが、あの時叔母はそれを栄転と捉えて、「旅先に思いを馳せて、とても気分よさそう」(蓬生の巻第二章第三段)でしたが、こちらは泣きの涙での旅です。

太宰府への旅は標準三十日だったそうです。男達にとっては、あるいは太宰府の少弐は、九州を統括する役所の№3くらいの地位ですから、魅力的なものではなかったかと思われますが、女性にとっては、ただ「まして遠く(原文・まいてはるかなるほど)」であっただけですから、道中に「美しい景色」はあったものの、そちらに目は行かず、ただ都を離れる悲しみだけだったようです。特に作者のような立場から見ればなおさらそのような想像しかできないでしょう。

道中、姫が「母君様の所へ行くの」(この姫の物語中最初の言葉)と問いかけることがあり、それも一度ならず「時々(原文・をりをり)」だったと、涙を誘います。この作者は子役の使い方も巧みです。

「二人とも向き合って泣いた」という「二人」は、その前の「娘たちも思い焦がれている」という、ある乳母の娘のようで、この二人はこの第四段で改めて役割を持って登場します。

太宰府勤務は五年が定めだったようで(『集成』)、これもまた決して短い期間ではありません。

乳母は筑紫についても、ただ夕顔のことばかりを思っていたようで、夢に夕顔が現れることもありました。ところがそこには「同じ姿をした女」が一緒にいたと言います。あの「なにがしの院」で現れた女と同じ女という意味でしょうか、乳母はそのことは知りませんが、何かがあったのだと思い、「『やはり、亡くなられたのだろう』と諦める気持ち」になったのでした。》

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第一段 源氏と右近、夕顔を回想

巻二十二 玉鬘 玉鬘の筑紫時代と光る源氏の太政大臣時代三十五歳の夏四月から冬十

月までの物語

 

第一章 玉鬘の物語(一) 筑紫流離の物語

第一段 源氏と右近、夕顔を回想

第二段 玉鬘一行、筑紫へ下向

第三段 乳母の夫の遺言

第四段 玉鬘への求婚

第二章 玉鬘の物語(二) 大夫監の求婚と筑紫脱出

第一段 大夫の監の求婚

第二段 大夫の監の訪問

第三段 大夫の監、和歌を詠み贈る

第四段 玉鬘、筑紫を脱出

第五段 都に帰着

第三章 玉鬘の物語(三) 玉鬘、右近と椿市で邂逅

第一段 岩清水八幡宮へ参詣

第二段 初瀬の観音へ参詣

第三段 右近も初瀬へ参詣

第四段 右近、玉鬘に再会す

第五段 右近、初瀬観音に感謝

第六段 三条、初瀬観音に祈願

第七段 右近、主人の光る源氏について語る

第八段 乳母、右近に依頼

第九段 右近、玉鬘一行と約束して別れる

第四章 光る源氏の物語(一) 玉鬘を養女とする物語

第一段 右近、六条院に帰参する

第二段 右近、源氏に玉鬘との邂逅を語る

第三段 源氏、玉鬘を六条院へ迎える

第四段 玉鬘、源氏に和歌を返す

第五段 源氏、紫の上に夕顔について語る

第六段 玉鬘、六条院に入る

第七段 源氏、玉鬘に対面する

第八段 源氏、玉鬘の人物に満足する

第九段 玉鬘の六条院生活始まる

第五章 光る源氏の物語(二) 末摘花の物語と和歌論

第一段 歳末の衣配り

第二段 末摘花の返歌

第三段 源氏の和歌論

 

【現代語訳】

 年月が経ってしまったが、愛しさの尽きなかった夕顔を少しもお忘れにならず、人それぞれの性格を、次々に御覧になって来るにつけても、「もし生きていたならば」と、悲しく、ただもう残念にお思い出しになる。
 右近は、物の数にも入らないが、やはりその形見と御覧になって、お目を掛けていらっしゃったので、古参の女房の一人として長くお仕えしていた。須磨へのご退去の折に、対の上に女房たちを皆お渡し申しあげなさったとき以来、あちらでお仕えしている。気立てのよい控え目な女房だと、女君もお思いになっていたが、心の底では、
「亡くなったご主人が生きておられたならば、明石の御方くらいのご寵愛にお劣りにはならなかっただろうに。それほど深く愛しておられなかった女性でさえお見捨てにならず、ちゃんとお世話なさるお心の変わらないお方だったのだから、まして、身分の高い人たちと同列とはならないだろうが、この度のご転居の数のうちには、きっとお加わりになっていたであろうに」と思うと、悲しんでも悲しみきれない思いであった。
 あの西の京に残っていた姫君の行方も分からず、ひたすら世をはばかり、また、今更いっても始まらないことで、「私の名を世間に漏らすな」と、口止めなさったことにご遠慮申して、安否をお尋ね申さずにいたうちに、姫君の乳母の夫が、大宰少弍になって赴任したので、下ってしまっていた。あの姫君が四歳になる年に、筑紫へは行ったのであった。

 

《ここから巻三十一真木柱まで、いわゆる玉鬘十帖と呼ばれる、ひとまとまりと言っていい話が始まります。この巻の名前は第四章第八段にある源氏の歌からとられました。

物語はずっと以前の夕顔の話の後日談になります。

夕顔は源氏の思い出の中にずっと残念な思いとして住み続けていたのでしたが、侍女だった右近にとってはなおさらで、あの後、紫の上の侍女としてつかえ、この度の六条院に女性たちがお入りになるのを見ながら改めて思い出し、とくに明石の御方に対しては、世が世であればこちらは三位の中将の御娘だったのだから、決して負けはしなかっただろうにと、「悲しんでも悲しみきれない思いであった」のでした。

その夕顔には、源氏と出会う前に、当時の頭中将の思い人であった時があって、そのことは帚木の巻で「常夏の女」として頭中将自身の口で語られていましたが、それによれば彼女は、中将の正室からの脅しによって身の程をはかなみ、生まれていた子供を連れて姿を隠してしまったのでした。

そして、その後のことは、夕顔の死後、夕顔の巻第四章第七段2節で、右近の話として語られていました。

頭中将の前から姿を消した夕顔は、西の京の乳母の家に身を寄せていたのですが、そこも居づらくなって別の住まいを探そうと方違えに行った先が、たまたま惟光の母の家の前の「夕顔の家」だったのでした。そこで源氏との出会いがあり、夕顔の死後、源氏は残された姫を引き取ろうと右近に探させるのですが、というところから、ここの話に続きます。

結局、右近が乳母達にその姫を引き取る話をする前に、乳母の夫が九州・太宰府に赴任することになって、彼らは姫を伴って下っていってしまっていた、ということのようです。

ちょっとうるさくふり返ってみると、右近が源氏から姫を引き取りたいと言われたのは、夕顔が亡くなった年の九月二十日のころ(あの時右近は姫の誕生を一昨年の秋と言っていましたから数え年で三歳の年)で、乳母の夫が大弐になって太宰府に下ったの「姫君が四歳になる年」とあって、それを年明けの除目だとすると、その間少なくとも四ヶ月ほどの期間があったはずです。

これは決して短い期間ではないように思われるのですが、右近はどうしてその間に乳母達に話すことが出来なかったのでしょうか。源氏から口止めされていたので、ほとぼりが冷めるのを待っていたということなのでしょうか。それにしても「人の噂も七十五日」と言いますから、ちょっと長すぎるような気がします。

が、これは物語の世界、そういう文句を言っても始まらないかも知れません。とりあえず、そういうことだったのだと、思うしかないでしょう。

ともあれ、あの時から十八年ほど経っているようですから、この姫は、元気でいれば二十歳過ぎということになります。》

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