源氏物語 ・ おもしろ読み

ドストエフスキーの全著作に匹敵する(?)日本の古典一巻を 現代語訳で読み,かつ解く,自称・労大作ブログ 一日一話。

第七章 光る源氏の物語

第一段 二月二十日過ぎ、朱雀院へ行幸~その2


【現代語訳】2

 「春鴬囀」を舞うときに、昔の花の宴の時をお思い出しになって、院の帝が、「もう一度、あれ程の舞いが見られるだろうか」と仰せられるにつけても、その当時のことがしみじみと次々とお思い出されなさる。舞い終わるころに、源氏の大臣が、院にお杯を差し上げなさる。
「 鶯のさへづる声は昔にてむつれし花の蔭ぞかはれる

(鴬の囀る声は昔のままですが、楽しく遊んだ花の蔭は変わってしまいました)」
 院の上は、
「 九重の霞隔つるすみかにも春と告げくる鶯の声

(宮中から遠く離れたここにも、春が来たと鴬の声が聞こえてきます)」
 帥宮と申し上げた方は、今では兵部卿となって、今上帝にお杯を差し上げなさる。
「 いにしへを吹き伝へたる笛竹にさへづる鳥の音さへかはらぬ

(昔の音色そのままの笛の音に、さらに鴬の囀る声までも少しも変わっていません)」
 巧みにその場をおとりなしなさった心づかいは特に立派である。杯をお取りあそばして、
「 鶯の昔を恋ふてさへづるは木伝ふ花の色やあせたる

(鴬が昔を慕って囀っているのは、飛び回る木の花の色があせているのでしょうか)」
と仰せになる御様子は、この上なく奥ゆかしくいらっしゃる。このお杯事は、お身内だけのことなので、多数の方には杯が回らなかったのであろうか、または書き洩らしたのであろうか。
 演奏している所が遠くてはっきり聞こえないので、御前にお琴をお召しになる。兵部卿宮は琵琶、内大臣は和琴、箏のお琴は院のお前に差し上げて、琴の琴は、例によって太政大臣が頂戴なさる。このような素晴らしい方たちによる優れた演奏で、秘術を尽くした楽の音色は、何ともたとえようがない。唱歌の殿上人が多数伺候している。「安名尊」を演奏して、次に「桜人」だった。月が朧ろにさし出して美しいころに、中島のあたりにあちこちに篝火をいくつも灯して、この御遊は終わった。


《下座の若者達のそれぞれの思いをよそに、最上席あたりでの静かな会話が交わされます。

院が「昔の花の宴の時」のことを思い出して懐かしみ、源氏にもう二度とあのような見事な舞は見られないだろうなあ、と語りかけられます。十四年前の話で、「今の帝は二歳であった。知らないことでもあり、うらやましげにおふたかたを見られる」(『集成』)。

源氏にとってもあの日は、前の紅葉賀に続く青春時代の最も晴々しく得意の時であり、また朧月夜の君との出会いのこともあって、しばし感慨を噛みしめ、そして気を取り直して、院に盃をさし上げ、歌を詠みます。「父帝の頃とはすっかり時勢が変わってしまったのです」、卓越した舞人がいなくなったのも、それは時の流れというものでしょう。時代が下れば、世は衰えていくという、夕霧の教育論の時に語られた尚古的発想です。

院は「今日はみなさんにおいで頂いて、日ごろ寂しい住まいが華やぎ、慰められました」と、この人らしい率直な思いを詠みます。

しかし、院に、日ごろは寂しくしていると言われると、聞き方によっては、帝の院に対する扱いが悪いというふうにも聞こえて、周囲の人々は、ちょっとひやりとします。源氏の懐かしい感慨を込めた歌が、思いがけず、院の境遇の変化を露わにする思いを呼び起こしてしまった格好です。

一瞬、みなが返事に困ったところに、兵部卿が帝に「いやいや、そうはおっしゃるが、さっきの春鴬囀は、昔に変わらぬみごとさでしたよ(今の政は、昔と少しも変わっていませんよ)」と詠んで盃をさし上げて「巧みにその場をおとりなしなさった」のでした。

そして帝は、院のその寂しさを意識しながら、「春鴬囀が昔ほど見事でないのは、私の治世が至らないからなのでしょう」と「卑下」(『集成』)する気持を示して間接的に先帝に敬意を示すことで、お慰めする気持をお詠みになります。

ともあれ四人は、遠い下座から聞こえる楽人の演奏に飽きたらず、また各々に楽器の名手とあって、期せずして合奏を楽しむことになり、合唱の人々がそれに和します。

時あたかも春の朧月が昇り、池の中島には篝火が焚かれて、賑わいは最高潮の裡に宴が終わったのでした。》


 この華やかな場面にそぐわない話を、また、一言書き置きます。

  今朝の新聞で、「『改正防衛省設置法』文官統制全廃」という記事を見ました。これまで自衛隊武官のトップ(幕僚長)は文官の下位と定まっていたのが、大臣の下で文官と対等とかわったそうです。武力の行使は文民の要請・指示を受けて初めて行う、という形だったのが、今後は武力自体からの発案もあり得るという方向への一歩、ということのように見えます。

技術や力を持っている者は、きっとそれを使いたく(使ってみたく)なるものです。

  安保法制の動きといい、このことといい、やはり、この国はそちらの方に歩を進めているのでしょうか。

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第一段 二月二十日過ぎ、朱雀院へ行幸~その1

【現代語訳】1
 元旦にも、大殿は御参賀のことがないので、のんびりとしていらっしゃる。良房の大臣と申し上げた方の昔の例に倣って白馬を牽き、節会のある日々は宮中の儀式を模して、昔の例よりもいろいろな事を加えて、盛大なご様子である。
 二月の二十日過ぎに、朱雀院に行幸がある。花盛りはまだのころであるが、三月は故藤壺の宮の御忌月である。早く咲いた桜の花の色もたいそう美しいので、院におかれてもお心配りし特にお手入れあそばして、行幸に供奉なさる上達部や親王たちをはじめとして、十分にご用意なさっていた。
 お供の人々は皆、青色の袍に桜襲をお召しになる。帝は赤色の御衣をお召しあそばされた。お召しがあって、太政大臣が参上なさる。同じ赤色を着ていらっしゃるので、ますますそっくりで輝くばかりにお美しく見違えるほどとお見えになる。人々の装束や振る舞いも、いつもと違っている。院も、たいそうおきれいにお年とともに御立派になられて、御様子や態度が以前にもまして優雅におなりあそばしていた。
 今日は、専門の文人もお呼びにならず、ただ漢詩を作る才能の高いという評判のある学生十人をお呼びになる。式部省の試験の題になぞらえて、勅題を賜る。大殿のご長男が試験をお受けなさるようだからである。臆しがちな者たちは、ぼおっとしてしまって、繋いでない舟に乗って、池に一人一人漕ぎ出して、実に途方に暮れているようである。

 日がだんだんと傾いてきて、音楽の舟が幾隻も漕ぎ廻って調子を整える時に、山風の響きがおもしろく吹き合わせているので、冠者の君は、
「こんなにつらい修業をしなくても皆と一緒に音楽を楽しめたりできるはずのものを」と、世の中を恨めしく思っていらっしゃった。

《夕霧の憂鬱をよそに源氏の権勢は増すばかりです。

正月の参賀には左大臣以下は赴くのですが、太政大臣は出仕の要がないのだそうで、悠然とした日を過ごします。それだけではありません、

「白馬の節会」は「正月七日、天皇が豊楽院に出御して左右馬寮の官人が牽く白馬(あをうま)を御覧になり、群臣に宴を賜る」(『集成』)という宮中恒例の儀式ですが、それを源氏は私邸で行ったと言います。それも作者は、「良房の大臣と申し上げた方の昔の例に倣って」と「人臣最初の摂政となり、藤原摂関政治の基を開いた」(『集成』)、実在の人の名を挙げて、しかもその人以上のことをしたのだと、物語ります。

次いで二月には朱雀院への行幸がありました。本当なら「花盛り」の三月がよかったのだが、それは「故藤壺の宮の御忌月」だから避けた、ということのようです。

これもまた盛大な催しでした。中で、何と言っても「同じ赤色を着ていらっしゃるので、ますますそっくりで輝くばかりにお美しく見違えるほどとお見えにな」ったというのが、ハイライトと言っていいでしょう。もはやそういうことについて、困るような噂が経つ心配もなくなって、かえって華やぎを添える以外のものではないようです。

余興と言っていいのでしょうか、夕霧を交えての学生達による漢詩のコンテストが行われました。勅題を受けた学生達は一人ずつ池の小舟に乗せられて、そこで詩を作ります。「放島の試み」と言って、中国渡来のカンニング防止法なのだそうです。

帝を始め、高貴の人々が勢揃いした前での催しで、学生達の中で「臆しがちな者たちは、ぼおっとして」しまって「途方に暮れているよう」なのですが、夕霧ひとりは逆に、あがるどころか、「自分もあっちにすわるはずのが、まちがってこんなめにあわされている」(『評釈』)という気がして、「世の中を恨めしく思っていらっしゃ」るのでした。》



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