【現代語訳】
御殿油をお点けして、内大臣が宮中から退出なさった様子で、ものものしく大声を上げて先払いする声に、女房たちが、
「それそれ、お帰りだ」などと慌てるので、姫はとても恐ろしくお思いになって震えていらっしゃる。夕霧は、そんなにやかましく言われるなら言われても構わないと一途な心で、姫君をお放し申されない。姫君の乳母が参ってお捜しするうちに、その様子を見て、
「まあとんでもない。なるほど、大宮は御存知ないことではなかったのだわ」と思うと、実に恨めしくなって、
「何とも情けないことですわ。内大臣殿がおっしゃることは申すまでもなく、大納言殿にもどのようにお聞きになることでしょう。結構な方であっても、初婚の相手が六位風情との御縁では」と、つぶやいているのがかすかに聞こえる。この屏風のすぐ後に捜しに来て、嘆いているのであった。
男君は、「自分のことを位が低いと軽蔑しているのだ」とお思いになると、こんな二人なのだとたまらなくなって、愛情も少しさめる感じがして、許しがたい。
「あれをお聞きなさい。
くれなゐの涙に深き袖の色をあさみどりとや言ひしをるべき
(真っ赤な血の涙を流して恋い慕っている私を、浅緑の袖の色だと言ってけなしてよ
いものでしょうか)
恥ずかしい」とおっしゃると、
「 いろいろに身の憂きほどの知らるるはいかに染めける中の衣ぞ
(色々と身の不運が思い知らされますのは、どのような因縁の二人なのでしょう)」
と言い終わらないうちに殿が入っておいでになったので、姫はしかたなくお戻りになった。
男君は、後に残された気持ちもとても体裁が悪く、胸が一杯になって、ご自分のお部屋で横におなりになった。
お車は三輌ほどで姫がひっそりと急いでお出になる様子を聞くのも、落ち着かないので、大宮の御前から「いらっしゃい」とあるが、寝ている様子をして身動きもなさらない。
涙ばかりが止まらないので、嘆きながら夜を明かして、霜がたいそう白いころに急いでお帰りになる。泣き腫らした目許も人に見られるのが恥ずかしいし、大宮もまたお召しになって放さないだろうから、気楽な所でと思って、急いでお帰りになったのであった。
その道中は、誰のせいでもなく心細く思い続けると、空の様子までもたいそう曇って、まだ暗いのであった。
「霜氷うたてむすべる明けぐれの空かきくらし降る涙かな
(霜が寒々と凍てついている明け方の空を真暗にして涙の雨が降ることよ)」
《別れを悲しんでいる二人に、内大臣がおいでになる先払い大きな声が聞こえました。先日来内大臣に叱られている大宮邸の女房たちは大慌てに騒動しますし、姫もまたお叱りを受けると震え上がります。夕霧は、開き直って気持ちで、そんな姫を守ろうと、抱きしめます。彼には、我こそは源氏の嫡男という少年らしいプライド(驕り)もあったでしょう。
そこへ、姫の乳母が、大宮に呼ばれて行ったまま帰ってこない姫を探してやって来て顔を出し、二人の姿を見て、言った一言が、ほとんど決死の覚悟をしていたであろう少年のプライドを一挙に吹き飛ばします。「初婚の相手が六位風情との御縁では」。
それは彼が一番気にしていたことです。彼は「こんな二人なのだとたまらなくなって、(原文・世の中うらめしければ)」、恋心も冷めてしまうような気持になります。彼は自分の恋が、源氏の御曹司の恋ではなくて、六位という下々のみすぼらしい恋に思えたのです。『赤と黒』では、レナール夫人が自分のジュリアンへの恋を「姦通」に当たると思い当たって、急に罪悪感に震える場面があります(第一部第十一章)が、ともに、恋する者の心に外の社会が意識された時の戸惑いをよく表しています。
抱いて離さぬつもりだった腕の力もゆるんだのでしょうか、父に呼ばれて「姫はしかたなくお戻りになっ」てしまいます。
そして内大臣は、雲居の雁を、わずか三台に車とともに早々に自邸に引き取ってしまい、若い夕霧は泣き寝入りの他に、なすすべもありません。
最後に歌が詠まれます。それには、例えば『集成』には「(夕霧)」と傍注が付けられていますが、もちろん夕霧が詠んだというわけではなく、作者が地の文のまとめとして添えたもののはずです。そう考えると、その前の恋人同士が詠み交わした歌も、現実の二人の会話として、この場でこの歌が口にされたと考えるのは、ちょっと無理がありそうです。こういう気持だったのだという作者の説明(または描写)の一部なのでしょう。
ともあれこうして、このかわいらしい恋人同士は引き裂かれてしまいました。読者はこの恋物語の成り行きを、実に十巻ほど先、巻三十二梅枝の終わりまで待たなくてはならないのです。》