源氏物語 ・ おもしろ読み

ドストエフスキーの全著作に匹敵する(?)日本の古典一巻を 現代語訳で読み,かつ解く,自称・労大作ブログ 一日一話。

第二章 夕霧の物語(一)

第一段 子息夕霧の元服と教育論~その2

【現代語訳】2

 大宮が源氏にご対面なさって、このことをお話し申し上げなさると、
「今のうちは、このように無理をしてまで、若年なのに大人扱いする必要はございませんが、考えていることがございまして、大学の道に暫くの間勉強させようという希望がございますので、あと二、三年間を無駄に過ごしたと思うことにして、いずれ朝廷にもお仕え申せるようになりましたら、そのうちに一人前になりましょう。
 私は、宮中に成長致しまして、世の中の様子も存じませんで、昼夜、御帝のお側におりまして、ほんのちょっと学問を習いました。ただ、畏れ多くも帝から直接に教えていただきましたのさえ、何事も広い知識を知らないうちは、詩文を勉強するにも、琴や笛の調べにしても、音色が十分でなく、及ばないところが多いものでございました。
 つまらない親に賢い子が勝るという話は、とても難しいことでございますので、まして、次々と子孫に伝わっていき、離れてゆく先は、とても不安に思えますので、決めましたことでございます。
 高貴な家の子弟として、官位爵位が思いどおりになり、世の中の栄華におごる癖がついてしまいますと、学問などで苦労するようなことは、とても縁遠いことのように思われるようです。遊び事や音楽ばかりを好んで、思いのままの官爵に昇ってしまうと、時勢に従う世の人が、内心ではばかにしながら、追従し機嫌をとりながら従っているうちは、自然とひとかどの人物に感じられて立派に見えますが、時勢が移って、頼む人に先立たれて、権勢が衰えた末には、人に軽んじあなどられて、取り柄とするところがないものでございます。
 やはり、学問を基礎としてこそ、政治家としての心の働きが世間に認められるところもしっかりしたものでございましょう。当分の間は、もどかしいようでございますが、将来の世の重鎮となるべき心構えを学んだならば、私が亡くなりました後も、安心できようと存じまして、ただ今のところはぱっとしなくても、このように面倒を見ていきましたら、貧乏な大学生だといってばかにして笑う者もけっしてありますまいと存じます」などと、わけをお話し申し上げになると、ほっと吐息をおつきになって、
「なるほど、そこまでお考えになって当然でしたことなのに、ここの大将なども、あまりに例に外れたご処置だと、首をひねっておりましたようですが、当人の子供心にも、とても残念がって、大将や左衛門督の子どもなどを、自分よりは身分が下だと見くびっていたのさえ、皆それぞれ位が上がって一人前になったのに、浅葱の衣をとてもつらいと思っておいでなのが、気の毒なのでございます」と申し上げなさると、ちょっとお笑いになって、
「たいそう一人前に不平を申しているようですね。ほんとうにたわいないことよ。あの年頃ではね」と言って、とてもかわいいとお思いであった。
「学問などをして、もう少し物の道理がわかったならば、そんな恨みは自然となくなってしまうでしょう」とお申し上げになる。

 

《名高い源氏の教育論です。夕霧を六位から始めさせたことを『評釈』は「源氏のあまのじゃく」と言いますが、作者はそういうふうには書いていません。

「つまらない親に賢い子が勝るという話は、とても難しいこと」と源氏は言います。

私たちのように、昭和の戦後を生きてきた者は、将来とは常に明るいものであり、時が経って時代が下って行けば行くほど、世の中はよくなっていく、と考えていたものですが、そういう考え方は、十九世紀、科学文明の発展とともにあったもので、むしろ、最もよいものは過去にあったとして、そこから時代が下るにつれて次第に乱れていくと考える方が、歴史上、普通の考え方なのではなかったでしょうか。

身近には、映画『三丁目の夕陽』を挙げてもいいでしょう。バブル崩壊後の現代を物質的には豊かでも停滞閉塞した時代と考え、戦後間もない頃の高度成長期の日本を、何もなく貧しいけれども夢と活力があったいい時代と懐かしむドラマでした。

紫式部のころにも同様に、およそ五十年前までの半世紀を「延喜天暦の治」として理想的な治世の行われた時代と考えられていました。

仏教の末法思想などもその例ですが、個人的にも、ひと歳とって自分が親よりも立派な人間になったと思うことのできる人は、稀ではないでしょうか。「十で神童、十五で才子、二十過ぎればただの人」と言いますが、どんなに優秀な資質を持って生まれても、研鑽を怠り、自然のままにいれば退化するという意味でもあるでしょう。「ありのままに生きようとした蟻は、ありのままだった」というのは、なかなか気の利いた、笑えない洒落です。

全ての天賦の才能を持って生まれてきたように書かれてきて、努力苦心の姿を書かれたことのなかった源氏に、今ここでそれを強調して言う資格があるとは思えませんが、言っていること自体は、ただの「あまのじゃく」ではないでしょう。

源氏は夕霧に、その研鑽の場をとりあえずは学問の道に求めさせました。

ところで、この考え方自体は納得できるのですが、源氏自身が桐壺帝から受けた教育は、実はまったく逆とも言える、「高い身分に生まれ、そうしなくても人に劣ることのない身分なのだから、むやみにこの道(学問)に深入りするな」(絵合の巻第四章第一段)というものだったのでした。

今、彼がそのことをどう考えているのか、あるいはなにか心境の変化があったのか、そのあたりは書かれていません。

ともあれ、源氏の厳しい指導方針に夕霧は「たいそう一人前に不平を申しているよう」ですが、それを「とてもかわいいとお思いであった」という源氏は、もう立派な父親の姿です。物語は大きく変わってきています。

なお、大将は右大将で、もとの頭中将、左衛門督はその弟ということのようです。》


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第一段 子息夕霧の元服と教育論~その1

【現代語訳】1

 大殿腹の若君のご元服のことをご準備なさるが、二条院でとお考えになるけれども、大宮がとても見たがっていらっしゃるのもごもっともで気の毒なので、やはりそのままあちらの殿で式を挙げさせ申し上げなさる。
 右大将をはじめとし申し上げて、御伯父の殿方はみな上達部で帝のご信望の格別な方々ばかりでいらっしゃるので、主人方でも、我も我もとしかるべき事柄は、競い合ってそれぞれがお仕え申し上げなさる。世の中全体が大騒ぎをして、大変な準備のしようである。
 四位につけようとお思いになり、世間の人々もきっとそうであろうと思っていたが、
「まだたいそう若いのに、自分の思いのままになる世だからといって、そのように急に位につけるのは、かえって月並なことだ」とお止めになった。
 浅葱の服で殿上の間にお戻りになるのを、大宮は、ご不満でとんでもないこととお思いになったのは、無理もなく、お気の毒なことであった。

 

《「大殿腹の若君」は源氏と葵の上の間の息子で、ずっと故葵の上の屋敷(三条邸)で祖母の大宮(前巻・朝顔の巻の女五宮はこの人の妹でした)によって育てられてきて、今、十二歳になります。「読者はこの人を『夕霧』と呼ぶ。のちに『夕霧』の巻で活躍するからである」と、『評釈』が紹介しています。私も先回りしてそう呼ぶことにします。

右大将は大宮の息子で、源氏の友人にしてライバルだった、かつての頭中将であり、今は当主になっています。

夕霧も大きくなって、その元服の時期を迎えました。本来なら二条院の源氏のもとで行うところですが、大宮がその晴れ姿を見たいと熱望しておられるということで、右大将邸で行うことにしました。源氏の親孝行ですが、「政権を握る二家がすることだから、世間一般のさわぎとなった」(『評釈』)のは、無理からぬことです。

『集成』によれば、「親王の子は従四位下に叙する規定であるが、一世の源氏の子の場合は従五位下が通例」だそうで、世間が四位になるだろうと考えたのは、源氏を親王扱いしたものか、と言います。源氏は形の上では臣下に下ったことになっていますが、世間はその権勢の様から、今や親王の扱いが相応しいと思うほどだったということなのでしょう。

源氏も一旦はそうしようかと考えたようですが、しかし、思い直して、夕霧は「浅葱の服で殿上の間にお戻りになる」ことになったのでした。「浅葱の服」は六位の衣服です。孫の立派な姿を楽しみにしていた大宮の驚きと失望は半端ではありませんでした。

なお、「お戻りになる」というのは、「夕霧は童殿上していたので、(里下がりして)元服したうえで昇殿」(『評釈』)することを言うのだそうです。》

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