源氏物語 ・ おもしろ読み

ドストエフスキーの全著作に匹敵する(?)日本の古典一巻を 現代語訳で読み,かつ解く,自称・労大作ブログ 一日一話。

巻二十一 少女

第六段 九月、中宮と紫の上和歌を贈答

【現代語訳】

 九月になると、紅葉があちこちに色づいて、中宮のお庭先は何ともいえないほど素晴らしい。風がさっと吹いた夕暮に、御箱の蓋に色とりどりの花や紅葉をとり混ぜて、こちらに差し上げになさった。
 大柄な童女が、濃い紫の袙に紫苑の織物を重ねて、赤朽葉の羅の汗衫を着て、とてももの馴れた感じで廊や渡殿の反橋を渡って参上する。格式高い儀礼であるが、童女の容姿の美しいのを捨てがたくてお選びになったのであった。そのような所にお仕え馴れているので、立居振舞、姿つきが他家の童女とは違って、好感がもてて風情がある。お手紙には、
「 心から春まつ園はわがやどの紅葉の風をつてにだにせよ

(お好みで春をお待ちの庭では、せめてこちらの紅葉を風の便りにでも御覧下さい)」
 若い女房たちがお使いを歓待する様子も風雅である。
 お返事には、この御箱の蓋に苔を敷き、巌などの感じを出して、五葉の松の枝に、
「 風に散る紅葉はかろし春の色を岩根の松にまけてこそ見め

(風に散ってしまう紅葉は心軽いものです、春の変わらない色をこの岩に根をはった

松の緑を御覧になってほしいものです)」
 この岩根の松も、よく見ると素晴らしい造り物なのであった。このようにとっさに思いつきなさった趣向のよさを感心して御覧あそばす。御前にいる女房たちも褒め合っていた。大臣は、
「この紅葉のお手紙は、何とも憎らしいですね。春の花盛りにこのお返事は差し上げなさい。この季節に紅葉を貶すのは、龍田姫がどう思うかということもあるので、ここは一歩退いて、花の美しい頃にこそ、強いことも言えるでしょう」と申し上げなさるのも、とても若々しくどこまでも素晴らしいお姿で魅力にあふれていらっしゃる上に、前にもまさる理想的なお邸で、お手紙のやりとりをなさる。
 大堰の御方は、

「このように御方々のお引っ越しが終わってから、人数にも入らない者はいつか分からないようにこっそりと移ろう」とお考えになって、十月にお引っ越しになるのであった。お部屋の飾りやお引っ越しの次第は他の方々に劣らないようにして、お移し申し上げなさる。姫君のご将来をお考えになると、万事についての作法もひどく差をつけず、たいそう重々しくお扱いなさった。

 

《中宮が下がってこられて、紫の上と隣同士ともなれば、「なにごともなくすむはずはない。さっそくに、一趣向」(『評釈』)あるのでした。

秋の盛り、中宮の屋敷は今が一番のよい季節です。そこで、あなたの寂しい春の屋敷に、せめてこの秋の素晴らしさをちょっとわけてあげましょう、と「ずいぶん思い切った歌」(同)を詠み掛けます。

返した歌も「ずいぶんてきびしい」(同)ものでした。しかし双方とも相手の見事さを十分に認め合ってことのようで、相手の使いや添え物に対する「趣向のよさ」に、それぞれに感嘆しています。「紫の上は、一国の皇后にたいし、一歩も引かないほどの勢力になっていた」(同)のです。

この二人は夫人と娘という間柄ですが、年齢は紫の上が一つ年上なだけで、姉妹のような間柄と考えればいいでしょう。こういう人たちによる、こういう危ういとさえ思える丁丁発止のやり取りが、のどかな貴族社会にワサビのような刺激を与えて、社交の他には何もない、単調とも言える日常生活のエネルギーとなったのでしょうか。紫の上の正式の返歌は、後に胡蝶の巻(第一章第五段)で送られることになります。

さて、明石の御方もそういう中に加わらなければなりません。ずっと以前から幾度も源氏に呼ばれながらぐずぐずとためらっていた彼女も、とうとう決心したようです。特別の屋敷まで造られて、さあ来なさいと言われれば、もう引っ込んでいることはできなかったのでしょう。

別の見方をすれば、この人もまた、中宮とは違う方向で、自分の意志を持っていて、源氏の言いつけを容易には聞かない人なのです。

こうして、結局は源氏の「一度にとお決めになった」ようにはいきませんでしたが、それぞれに異なる人柄を見せながらの転居がなされて、ともかくも六条院は全ての主人を迎えて、源氏の栄華のシンボルとなり、夕霧の問題が残ってはいますが、とりあえず、源氏にとって、読者にとって、めでたしめでたし、ということになりました。

そして、次から物語はしばらく別の方向に向かうことになります。》

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第五段 秋の彼岸の頃に引っ越し始まる

【現代語訳】

 彼岸のころにお引っ越しになる。一度にとお決めになったが、混雑を避けてといって、中宮は少しお延ばしになる。いつものようにおとなしく気取らない花散里は、その夜、一緒にお引っ越しなさる。
 春のお庭は、今の季節には合わないが、とても格別である。お車十五台、御前駆は四位五位の人々が多く、六位の殿上人などは、特別な人だけをお選びになっている。仰々しくほどではない。世間の非難があってはと簡略になさっていたので、どのような点につけても大仰に威勢を張ることはない。
 もうお一方のご様子も大して劣らないようになさって、侍従の君が付き添って、そちらはお世話なさっているので、なるほどこうであるべきだと見受けられる。

女房たちの曹司町も、それぞれに細かく分けて割り当ててあったのが、他の何よりも素晴らしく思われるのであった。
 五、六日過ぎて、中宮が御退出あそばす。その御様子は、それは簡略とはいっても、まことに大層なものである。御幸運の素晴らしいことは申すまでもなく、お人柄が奥ゆかしく重々しくいらっしゃるので、世間から重んじられていらっしゃることは、格別でおいであそばした。
 この町々の間の仕切りには、塀や廊などを、あちらとこちらとが行き来できるように作って、お互いに親しく風雅な間柄にお造りになってあった。

 

《さて、引っ越しです。源氏は一度に全部、と決めたのですが、中宮は日を改めてとなりました。中宮の意志によるようで、彼女の位置や人柄を表しているように見えます。中宮という位もそうさせるのでしょうが、それよりも、母・御息所の誇り高い人柄を受け継いで、源氏の言いつけといえども、自分の考えで従わないこともあるといったところのように見えます。

かくしてその日の引っ越しの第一陣、紫の上の一行は、先駆けが主に四位五位だったといいますが、つまり高位の人だったということ、またお車十五台はおよそ六十人(『評釈』)の女房たちの付き添いということになるようで、これでも「簡略になさっていた」と、作者は誇らしげです。

花散里は、決められた日に入ります。紫の上と一緒に行けば、見劣りするのは目に見えているでしょうが、中宮は違って、源氏がこうと言えば、素直にそれに従います。源氏は、こちらも「大して劣らないようになさって」のお入りです。そうは言ってもやはり見劣りすること仕方がないのですが、ただこちらは侍従の君(夕霧)が、義母に仕えるという形で随行されましたから、人の見る目も違い、必ずしも紫の上に劣るというわけではありませんでした。

そして中宮が日を改めて入りますが、こちらは紫の上の場合とは違って、「簡略とはいっても、まことに大層なもの」でした。

と、ここで明石の御方の話がないことに気付きます。こちらはまだそういうことになっていないようです。

こうして女性が同じ屋敷に集うとなると、お互いの関係が気になりますが、お屋敷は「あちらとこちらとが行き来できるように作って」あって、お互いに親しみ合うことが出来るようになっています。みなが仲良く、というのは源氏の願いであるわけですが、さて、当の女性たちにとってはどんなものでしょうか。》

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第四段 秋八月に六条院完成

【現代語訳】

 八月に、六条院がすっかり完成してお引っ越しなさる。西南の町は中宮の御旧邸なので、そのままお住まいになる予定である。東南は、殿のいらっしゃる予定の町である。北東は、東の院にいらっしゃる対の御方、北西の町は、明石の御方とお考えになって造営なさった。

もとからあった池や山を、都合の悪い所にあるものは造り変え、水の情緒や山の風情を改めて、いろいろとそれぞれの御方々のご希望どおりにお造りになった。
 東南の町は、山を高く築き、春の花の木を無数に植えて、池の様子も趣深く優れていて、お庭先の前栽には、五葉の松、紅梅、桜、藤、山吹、岩躑躅などといった、春の楽しみをことさらに選んで植えて、秋の植え込みをひとむらずつ混ぜてある。
 中宮の御町は、もとからある山に、紅葉の色の濃くなる植木を幾本も植えて、泉の水を遠くまで清らかに流し、遣水の音がきわだつように岩を立て加え、滝を落として、秋の野を広々と作ってあるが、折柄ちょうどその季節で、盛んに咲き乱れている。嵯峨の大堰あたりの野山も、見るかげもなく圧倒された今年の秋である。
 北東の町は、涼しそうな泉があって、夏の木蔭を主としていた。庭先の植え込みには呉竹があり、下風が涼しく吹くようにし、木高い森のような木は奥深く趣があって、山里めいて卯花の垣根を特別に造りめぐらして、昔を思い出させる花橘、撫子、薔薇、くたになどといった花や草々を植えて、春秋の木や草をその中に混ぜていた。東面は、割いて馬場殿を造り埒を結って、五月の御遊の場所として、水のほとりに菖蒲を植え茂らせて、その向かい側に御厩舎を造って、またとない素晴らしい馬を何頭も繋がせていらっしゃった。
 西北の町は、北面は築地で区切って、御倉町である。隔ての垣として松の木をたくさん植えて、雪を鑑賞するのに都合よくしてある。冬の初めの朝、霜が結ぶように菊の籬、得意げに紅葉する柞の原、ほとんど名も知らない深山木などの、木深く茂っているのを移植してあった。


《名高い六条院の完成です。「もとからあった池や山を、都合の悪い所にあるものは造り変え…」は当然のように思われますが、『評釈』によればこれにも意味があって、寝殿造りの代表的なものとされる東三条殿も、土地の都合で西の対が造られなかったのであって、ここでの源氏はそういうところを全て造成し直して、全てが揃った邸を、しかも四つ(ただし、北西の邸は寝殿がなかったようです)建設したということになるようで、破格の大工事だったと言いたいところであるわけです。

さて、前年から一年近くかかって出来た大邸宅では、それぞれの邸が各女性に与えられ、その人にふさわしい設えがなされます。

紫の上は東南に春の屋敷を造り、西南の町は「中宮の旧邸」と言いますから、六条御息所の住まいだったのでしょう、そこは義娘・斎宮の中宮に与えて秋の庭、というのは、薄雲の巻第五章あたりから想像が付きますが、花散里の夏、明石の御方に冬というのは改めてなるほどという気がします。

花散里に源氏が訪れたときが五月で、散っていた花は橘でした。そしてこの人は「はなやかさのすくないじみな人がら」(『評釈』)でした。この時代、夏の季節感はそういうものだったということなのでしょうか。夏という季節に、光とエネルギーの溢れる最も開放的で明るい季節という、青春そのものといった美観を発見したのは、現代文化の手柄と言っていいのかも知れません。

明石の御方の冬、というのも、彼女の堪え忍ぶ姿の清廉な美しさとクレバーで知性的な人柄(もっともその奧に激しい情念を燃やしてはいるのですが)から考えれば、自然だと思われます。しかし、それだけではなく、また『評釈』によれば、「御倉町」(倉の並んだ一画)があるというのが、彼女の財力を暗示していると言います。

同時にこの二人の屋敷は、その町の一部が、それぞれ御厩舎、御倉町という屋敷全体の施設に占められていることによって、紫の上や中宮とは違って、一段低い扱いであることを示してもいるようです。》

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第三段 源氏、六条院造営を企図す

【現代語訳】

 大殿は、静かなお住まいを同じことなら広く立派にして、あちこちに別居して気がかりな山里人などをも集め住まわせようとのお考えで、六条京極の辺りに、中宮の御旧居の近辺を、四町いっぱいにお造りになる。
 式部卿宮が来年五十歳におなりになる御賀のことを、対の上がお考えなので、大臣も、「なるほど、見過ごすわけにはいかない」とお思いになって、

「そのようなご準備も、同じことなら新しい邸で」と、用意させなさる。
 年が改まってからは、昨年以上にこのご準備の事、御精進落としの事、楽人、舞人の選定などを、熱心に準備なさる。経、仏像、法事の日の装束、禄などを、対の上はご準備おさせになるのだった。
 東の院にも分担してご準備なさることがある。お仲は、いままで以上にとても優雅にお手紙のやりとりをなさってお過ごしになっているのであった。
 世間中が大騒ぎしているご準備なので、式部卿宮のお耳にも入って、
「長年、世間に対しては寛大なお心であるが、私どもには残念なことに冷たくて、何かにつけて辱め、宮人に対してもお心配りがなく、情けないことばかり多かったのだが、恨めしいとお思いになることがあったのだろう」と、困ったことともまたつらくもお思いであったが、紫の上がこのように数多くの女性関係の中で、特別のご寵愛があって、まことに奥ゆかしく立派な方として、大切にされていらっしゃるご縁を、自分の家までは及んで来ないが、名誉にお思いになると、また、
「このように世間の評判となるまで、大騒ぎしてご準備なさるのは、思いがけない晩年の名誉だ」と、お喜びになるのを、北の方は、「おもしろくなく、不愉快だ」とばかりお思いであった。王女御の、ご入内の折などにも、大臣のご配慮がなかったようなのを、ますます恨めしいと思い込んでいらっしゃるのであろう。


《さて、激動と言ってもよかったこれまでの源氏の周辺も、どうやらさまざまなことが落ち着いてきたようです。そこで彼は、晩年の大事業として大邸宅の造営を思い立ちます。男にとって、栄花のシンボルは何と言っても家を建てることです。場所は親代わりをしている梅壺中宮が母・六条御息所から譲り受けた旧居のあたり、そこに四町いっぱいに造る計画です。

当時の一町というのは、一二〇メートル四方の一区画を言うようです(『集成』)から、四町は二四〇メートル四方ということになる、驚くべく広大な邸宅で、そこに、明石の御方を初めとして、あちこちにいる女君達を集めて住まわせようとの考えです。なお、この建物については、サイト・「季刊大林」の中の「光る源氏の六条院をめぐって」が、極めて詳細な検討を加え、「六条院全体配置図」を載せています。

そして、ちょうどおりよく、来年が紫の上の父・式部卿宮の五十歳の賀ときいて、どうせならそれをこの新しい邸で催したいと、準備を急ぐことにしました。

この人は源氏須磨流謫の時に背を向けたことがあって以来、源氏は帰京後、長く冷遇してきました。それをここで急にその祝賀を思い立ったのは、どういうわけなのでしょうか。作者はなにも説明しません。

特別のことが書かれない以上は、最も普通に考えられること、それはそういう派手な催しをすることで式部卿を初め、周囲に自分の威勢を示すこと、そして今風に考えれば、最愛の妻を喜ばせることでしょうか。

式部卿は喜ぶのですが、その北の方ひとりは、夫が継娘のおかげで栄誉を受けるのが無念に思われてならなかった、というのも、この作者らしく、めでたい一点張りではなく目配りの利いた点描です。もっとも、ここではそれさえも源氏の栄華を引き立てることになってはいるのですが。

ところで、ここの初めのあたり、原文で、①「四町を占めて造らせたまふ」、②「めずらしからむ御家居にてと、いそがせたまふ」、③「御心を入れていとなみたまふ」とあって、助動詞「せ」がある時と無い時があります。

源氏と紫の上への尊敬はいずれも普通は、「せたまふ」ではなくて、「たまふ」だけで表現されていると思いますが、前節には④「のどやかならで帰らせたまふ」とありました。また紫の上について⑤「上はいそがせたまひける」ともあります。

『評釈』は、①を「お造りになる」、②を「完成させようとなさる」、④は「お帰りになる」、⑤を「ご用意なさった」と訳していて、「せ」の扱いが一定していないように思われます。

いずれも、「せ」は使役として意識的に使われていると考える方がいいのかとも思われますが、どうなのでしょうか。》


 
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第二段 弘徽殿大后を見舞う

【現代語訳】

 夜は更けてしまったが、このような機会に太后宮のいらっしゃる所を避けてお伺い申し上げなさらないのも思いやりがないので、帝が帰りにお立ち寄りになる。大臣もご一緒にお供なさる。大后はお喜びになって、ご面会なさる。

とてもたいそうお年を召されたご様子にも、故宮をお思い出し申されて、

「こんなに長生きされる方もいらっしゃるものを」と、残念にお思いになる。
「今はこのように年を取って何もかも忘れてしまっておりましたが、まことに畏れ多くもお越し戴きましたので、改めて昔の御代のことが思い出されます」とお泣きになる。
「しかるべき人々に先立たれて後、春になったことも知らないようでいましたが、今日は心慰めることができました。時々はお伺い致します」と帝が御挨拶申し上げあそばす。 

太政大臣もしかるべくご挨拶なさって、
「また改めてお伺い致しましょう」と、申し上げなさる。
 ゆっくりなさらずにお帰りあそばすご威勢につけても、大后は、やはりお胸が静まらず、
「どのように思い出しておられるのだろう。天下をお治めになるというご運勢は、押し消すことはできなかったのだ」と昔を後悔なさる。
 尚侍の君も、静かにふり返って御覧になると、忘れがたい事が多かった。今でも適当な機会に、何かの伝で密かに便りを差し上げなさることがあるのであろう。
 大后は帝に奏上なさることのある時々に、御下賜された年官や年爵や、何やかやにつけて、ご意向に添わない時には、「長生きをしてこんな酷い目に遭うとは」と、もう一度昔の御代に取り戻したく、いろいろとご機嫌が悪いのであった。
 年を取っていかれるにつれて意地の悪さも加わって、院ももてあまして、例えようもなくお思い申し上げていらっしゃるのだった。
 さて、大学の君はその日の漢詩を見事にお作りになって、進士におなりになる。長い年月修業した優れた者たちをお選びになったが、及第した人はわずかに三人だけであった。
 秋の司召に、五位に叙されて、侍従におなりになる。あの人のことを、忘れる時はないが、内大臣が厳しく監視申していらっしゃるのも恨めしいので、無理をしてまでもお目にかかることはなさらない。ただお手紙だけを適当な機会に差し上げて、お互いに気の毒なお仲である。

 

《帝は、帰りに大后を訪ねることにしました。朧月夜とともに朱雀院邸におられたのです。

帝が大后に会って最初に母・藤壺を思い出したというのは、意表を突く感じですが、先ほど読者に花宴を思い出させたのと会わせて、かつてのヒロインのうまい出し方です。『評釈』が「物語のフィナーレが刻々と近づいていることを感じさせる」と言います。

そしてこれまでの源氏の最大の敵役だった大后の登場です。

その源氏と、源氏の擁する瓜二つの帝とが揃って訪ねて来たのを迎える大后は、言葉は謙虚でも、気持は穏やかではありません。しかし、結局は「後悔なさる(原文・悔いおぼす)」しかなかったのだと、作者は源氏の勝利を確認します。

何か、彼ら自身、そういう意図で行ったのではないかとさえ思われますが、あくまでも作者の意図と考えておきましょう。私は、作者は源氏をそれほど政略的な、もっと言えば狡猾な人間に描こうとは思っていないように思うのです。

以下の尚侍の君の話と普段の大后の様子は、作者としては源氏を持ち上げる気持で書いたのでしょうが、二人の気品を貶めるだけで、無くもがなの話だと思います。これでは、肝心の源氏の気品まで、瀬踏みされてしまいかねません。格調高い相手と向き合ってこそ、主人公の格も上がろうというものなのですが…。

そして、この行幸の結びは夕霧です。まずその呼び名が冠者の君から大学の君に変わります。元服して時が経って、青年の扱いになったということでしょうか。そして、先の御前での漢詩のコンテストに見事に合格して「進士」に昇格したのでした。前に挙げたサイト「平安末の学制」によれば、擬文章生になってから、省試を受けるまでは、相当の学習期間を置くのがふつうだったそうで、「たとえば平安前半(10世紀初)の藤原在衡の場合、入学してから文章生になるのに足掛け六年を要している。大江匡衡(9521012)は足掛け九年である」と言いますが、夕霧の場合はわずかに一年あまりだったのでした。》

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