【現代語訳】
 月がいよいよ澄んで、静かで趣がある。女君が、
「 氷閉ぢ石間の水はゆきなやみ空澄む月のかげぞながるる

(氷に閉じこめられた石間の遣水は流れかねていますが、空に澄む月の光はとどこお

ることなく西へむかって流れて行きます)」
 外の方を御覧になって、少し頭を傾けていらっしゃるところは、似る者がないほどかわいらしげである。髪の具合や顔立ちが、恋い慕い申し上げている方の面影のようにふと思われて、素晴らしいので、少しは他に分けていらっしゃったご寵愛もあらためてお加えになることであろう。

ふと鴛鴦が鳴いたので、
「 かきあつめ昔恋しき雪もよにあはれを添ふる鴛鴦のうきねか

(何もかも昔のことが恋しく思われる雪の夜に、いっそうしみじみと思い出させる鴛

鴦の鳴き声であることよ)」


《初めの紫の上の歌は、『集成』も『評釈』も「叙景歌」であるとしています。が、どういう思いで詠まれたのか、ちょっと分かりかねます。

前の節は「昔の話や今の話などに夜が更けてゆく」と結ばれていましたから、そこから「月がいよいよ澄んで」は自然な流れと言えますが、紫の上にしてみれば、源氏のかつての恋人の話をさんざん聞かされた後です。そこでは、到底「空澄む月のかげぞながるる」というような気分ではないでしょう。

もしここに彼女の思いを見ようとすれば、話題を変えたいという思い、と言うくらいしかないような気がします。

つまり、この歌に紫の上の思いは特に入ってはおらず、作者としては、彼女の口を借りて、「月がいよいよ澄んで、静かで趣がある夜」に「互いに心の通い合った、美貌の男女がしめやかに語らっている」という、一枚の絵になる光景を描いて見せた、ということなのでしょうか。

話は源氏サイドで進んでいき、そういう紫の上を見ながら、彼は相変わらず前の話題の昔の恋人の、藤壺の面影を追っています。

源氏の歌、『集成』が「『昔』は藤壺のこと、『鴛鴦の浮寝』は、紫の上との間柄を意味しよう」と言います。目の前に妻を見ながら、それによってますます昔の女の思い出を切なく思い出す、という歌を詠み、しかも女性の作者が、それを美しい光景として描いているようです。

やはり、一枚の絵として鑑賞するしかないように思われます。》



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