源氏物語 ・ おもしろ読み

ドストエフスキーの全著作に匹敵する(?)日本の古典一巻を 現代語訳で読み,かつ解く,自称・労大作ブログ 一日一話。

第一章 朝顔姫君の物語(一)

第四段 源氏、執拗に朝顔姫君を恋う

【現代語訳】

 東の対に独り離れていらっしゃって、宣旨を呼び寄せてはご相談なさる。

前斎院にお仕えする女房たちで、それほどでない身分の男にさえすぐになびいてしまいそうな者は、間違いも起こしかねないほど源氏を褒め申し上げるが、宮は、その昔でさえ全然お考えにもならなかったのに、今となっては昔以上にどちらも色恋に相応しくないお年、ご身分であるので、「ちょっとした木や草につけての折々の興趣を見過さずに書くお返事なども、軽率だと受け取られるのではないだろうか」などと、人の噂を憚っていらっしゃって、気をお許しなるご様子もないので、相も変わらないお気持ちを、世間の女性とは違って、珍しくまた妬ましくもお思い申し上げなさる。
 世間に噂が漏れ聞こえて、
「前斎院に、熱心にお便りを差し上げなさるので、女五の宮なども結構にお思いのようです。似つかわしくなくもないお間柄でしょう」などと言っていたのを、対の上は伝え聞きなさって、暫くの間は、「いくら何でも、もしそういうことがあったとしたら、お隠しになることはあるまい」とお思いになっていらっしゃったが、さっそく気をつけて御覧になると、お振る舞いなどもいつもと違って魂が抜け出たようなのも情けなくて、「真剣になって思いつめていらっしゃるらしいことを、素知らぬ顔で冗談のように言いくるめなさったのだ」と思い、同じ皇族の血筋でいらっしゃるけれども、こちらは声望も格別で、昔から重々しい方として聞こえていらっしゃった方なので、「お心などが移ってしまったら、みっともないことになる。長年のご寵愛などは、私に立ち並ぶ者もなくずっと今まできたのに、今さら他人に負かされようとは」などと、人知れず嘆かずにはおれなくていらっしゃる。
「すっかりお見限りになることはないとしても、幼少のころから見慣れてこられた長年の親しさで、軽々しいお扱いになるのだろう」など、あれこれと心を乱していらっしゃるので、普通のことは恨みごとも憎げなく申し上げたりなさるが、心底つらいとお思いなので、顔色にもお出しにならない。
 源氏は、縁近くに出て物思いに耽りがちで、宮中にお泊まりになることが多くなり、仕事と言えば手紙をお書きになることで、「なるほど、世間の噂は嘘ではないようだ。せめてほんの一言おっしゃってくださればよいのに」と、ただもういやなお方だとお思い申し上げていらっしゃる。

 

《源氏はわざわざ前斎院側近の宣旨を幾度も呼び、自室に籠もっての作戦会議です。宣旨はもちろん源氏と主人が結ばれることと期待していますから、協力的でも不思議はありません。

しかし当人は、前節にあった「恋愛をこえた共感的心情」があったのかも知れませんが、源氏の期待するような気持はもうまったくないようで、ひとえに「人の噂を憚って」います。例の「何としても、人の二の舞は演じまい」という思いに加えて、『集成』の言うように、以前、右大臣方にまで浮き名として噂が流れたことが、よほど応えたのかも知れません。

さてしかし、それでも噂になってしまったようで、それが、紫の上の耳にまで届いてしまいました。

今度は紫の上が心を乱す番です。この間、明石の御方のことで気をもんだのが、やっと落ち着いたと思ったら、またしても、です。

「もしそういうことがあったとしたら、お隠しになることはあるまい」というのは、現代では意味不明の思いと言うべきですが、明石の御方の時は確かにそうで、全てを源氏の方から話したのでした。

しかし今度は、明石の御方とは出自の違う、「同じ皇族の血筋」であって、「声望も格別で、昔から重々しい方として聞こえていらっしゃった方」ですから、話はただの浮気ではすまないかもしれません。噂では「似つかわしくなくもないお間柄」とさえ言って、正式な結婚さえ話題になっているようです。

思えば紫の上は源氏の正式の妻にはなっていません。どうしてそうなのか、語られないのですが、源氏にとってその必要もないほど理想的な妻であり、又逆に出自は悪くないとしても、母もなく、また掠ってきたという事情も影響があるのでしょうか。

ともあれ、彼女はそういう特殊な不安定な身の上を、この時初めて意識させられたわけです。不安な思いをじっと隠して成り行きを窺っていると、源氏のもの思いがただならぬ様子で、ことが手に付かず「仕事と言えば手紙をお書きになること」といった具合です。

どうやら本物ではないかと、紫の上の不安はいや増します。

それにしても、「普通のことは恨みごとも憎げなく申し上げたりなさるが、心底つらいとお思いなので、顔色にもお出しにならない」とは、女性とは恐ろしいもので、この紫の上も「可愛いふりしてあの子 わりとやるもんだね」と、古い歌謡曲が思い出されます。》
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第三段 帰邸後に和歌を贈答する

【現代語訳】

 お気持ちの収まらないままお帰りになったので、余計にその夜は目覚めがちにあれこれとお思いになる。早く御格子を上げさせなさって、朝霧を眺めなさる。枯れたいくつもの花の中に、朝顔があちこちにはいまつわって、あるかなきかに花をつけて、色艶も格別に変わっているのを、折らせなさってお贈りになる。
「そっけないおあしらいに、体裁の悪い感じがいたしまして、それに後ろ姿もどのように御覧になったかと、悔しくて。けれども、
  見しをりのつゆ忘られぬ朝顔の花の盛りは過ぎやしぬらむ

(昔拝見したあなたがどうしても忘れられません、その朝顔の花は盛りを過ぎてしま

ったのでしょうか)
 長年思い続けてきた苦労も気の毒だくらいには、いくら何でも、ご理解いただけるだろうかと、一方では期待しつつ」などと申し上げなさるのだった。

穏やかなお手紙の風情なので、「返事をせずにお気をもませするのも、心ないことか」とお思いになって、女房たちも御硯を調えて、お勧め申し上げるので、
「 秋果てて霧の籬にむすぼほれあるかなきかにうつる朝顔

(秋は終わって霧の立ち込める垣根にしぼんで、今にも枯れそうな朝顔の花です)
 似つかわしいお喩えにつけても、涙がこぼれて」とばかりあるのは、何のおもしろいこともないが、どういうわけか、手放しがたく御覧になっていらっしゃるようである。青鈍色の紙に、柔らかな墨跡は、たいそう趣深く見えるようだ。

ご身分や筆跡などによってとりつくろわれてその時は何の難もないことも、いざもっともらしく伝えるとなると、事実を誤り伝えることがあるようなので、ここは勝手にとりつくろって書くようなので、変なところも多くなってしまった。
 昔に帰って、今さら若々しい恋文書きなども似つかわしくないこと、とお思いになるが、やはりこのように昔から離れぬでもないご様子でありながら、不本意なままに過ぎてしまったことを思いながら、とてもお諦めになることができず、若返って真剣になって文を差し上げなさる。

 

《前斎院の厳しいガードが源氏の心を騒がせます。

 ここで贈答された歌について、前節で挙げた論文「朝顔斎院~須磨流謫事件にまきこまれた生」が、今度は姥澤隆司の論を挙げて、簡明に説いていますので、ここではそれを要約しておきます。

源氏の歌の「朝顔の花の盛りは過ぎやしぬらむ」は、女性への「デリカシーを欠」いているのではないかとも思われるが、これは「源氏のみならず、宮も含めて、『互いにもはや若くないことを認め、』二人の間に、『共感的心情が交流しえている』」と理解すべきである…」。つまり、二人の歌の「朝顔」は前斎院を指すのではなくて、いずれも二人の関係そのものを指していると言えばいいでしょうか。

 そこまではよく分かるのですが、しかしそれを「要するに源氏は、何ら成心もなく、心に感じたままに詠み送り、斎院も又、仰せのとおりと素直に受け取る。…姥澤氏も『二人の間には恋愛をこえた共感的心情が交流』するとみる」と結論されると、節の終わりの「若返って真剣になって文を差し上げなさる(原文・さらがへりてまめやかに聞こえたまふ)」にはそぐわない気がします。

 源氏の方にはやはり、小さくない「成心」があったのでしょう。源氏にしてみれば歌よりも後の添え書きの方にこの時の思いがあったと言ってもいいように思われます。

一般に男の方が女性よりも、よく言えばロマンチストなのではないか、というのが、私的持論なのですが、男女の間柄のありようについても、そういう気がします。

女性は、若い頃はお伽噺のような夢に男以上に胸をときめかせても、一歳取って現状の生活が一定レベルで落ち着いていれば、普通の場合、そこにしっかり根を下ろして、その立場から一切を仕切ってしまおうというふうに考えるようです。昨今、アラフォー以後の女性がいたって逞しく見えるのは、彼女たちの経済的自立を背景にした、まさにそういう、多分いい意味での現実主義があるからだと思います。

しかし男は、どうもそういうふうにすっぱりと夢物語を捨てることが難しいようです。ここの場合、源氏もその例に漏れないということではないでしょうか。

女にとって恋愛は生涯の歴史である。男にとっては単なる挿話にすぎない」というヴォーヴォワールの言葉があるそうですが、成就にしろ破綻にしろ、それは何らかの形でけじめがついた場合の話であって、まったく未完のままに途切れた場合、晩年になってなおそれなりに自信のある男は、あたかもし残した仕事を始めるように、かつての自分の夢を追いかけてみようという気持になることがあるようです。晩年の心理であり、源氏もこの道ではもう十分晩年なのだということでしょうか。》


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第二段 朝顔姫君と対話 ~その2

【現代語訳】2
「 なべて世のあはればかりをとふからに誓ひしことと神やいさめむ

(一通りのお見舞いの挨拶をするだけでも誓ったことに背くと神が戒めるでしょう)」とご返事があるので、
「ああ、情けない。あの当時の罪は、みな『科戸の風』で、すっかり吹き払ってしまったのに」とおっしゃる、その魅力もこの上ない。
「『禊を神は(受けなかった)』と言われていますが、どうなったのでしょう」などと、たあいのないことを申し上げるのも、実際とても気が引ける感じである。

色恋にうといお人柄は年月とともに強く、ただもう慎み深く控えめに振る舞われるばかりで、お返事もおできにならないのを、女房たちは見て困っているようである。
「色かしいお話になってしまって」などと、深く嘆息してお立ちになる。
「年をとると面目ないことになるものですね。世に類ないやつれた姿を、『今ぞ(あなたを思ってやつれたのですよ)』と申し上げられるほどにも、扱って下さらないのですね」と言ってお出になった後は、女房たちがうるさいまでに、例によってお噂申し上げていた。
 ただでさえも空は風情があるころで、木の葉の散る音につけても、以前の心深いやりとりが甦ってきて、その当時の嬉しかったり悲しかったりにつけ、思い遣り深くお見えになったお気持ちのほどを、思い出し申し上げる。

 

《前斎院の返事は、お仕えしていた神様を盾にしての固辞の態度ですが、源氏は「あの当時の罪は、みな科戸の風にまかせて吹き払ってしまった」のだから、問題はないはずだと、戯れての再反論です。

「あの当時の罪(原文・その世の罪)」は、賢木の巻末で当時の右大臣が口にしたことから知れた、源氏が禁忌を破って朝顔斎院に近づいたことが世間に知られてしまっていたことを指しているようです。

それについて今さらの話ですが、『人物論』所収「朝顔斎院―須磨流謫事件にまきこまれた生―」(森藤侃子著)によれば、藤村潔の論文「源氏の須磨流謫と朝顔の姫君」(『源氏物語の構造』所収)というのがあって、それには、「尚侍ならびに斎院に対する犯しに、藤つぼの宮に対する犯しをひそかに重ねて、(源氏は)須磨に身を引くのである」とあり、「朝顔斎院が源氏の流謫に対してその見かけよりは、はるかに大きく実質的にかかわっている」とあるそうです。

すぐ後に「色恋にうといお人柄は年月とともに強く」とあるのは、彼女の元来の性格だけではなく、そのことで傷ついたという一面も小さくないのかも知れません。

さて、前斎院が、あれ以来こうしたお付き合いは「神が戒めるでしょう」と言ったのに対して、源氏は『科戸の風』と答えました。「天の下四方の国には罪といふ罪はあらじ」ということを言っているようですから、そういう「罪」は、もう心配はいらないはずだという意味になるでしょう。

それに続けての「その禊を、…」は、「申し上げるのも」と尊敬語がありませんから、『集成』のように取り次ぎの宣旨が言ったのだと考えるのがいいでしょう(『評釈』と『谷崎』は、源氏としています)。もちろん戯れての言葉です。

女房たちのそういう軽口が「実際とても気が引ける感じである」ほど、源氏の様子が素晴らしい、と相変わらずの讃辞ですが、しかし、そのやり取りをよそに、前斎院はもう何も言わなくなってしまって、源氏は愚痴を言って帰るしかありません。

木の葉の散る帰り道、源氏は「以前の心深いやりとりが甦ってきて」、その当時、例えば葵の巻第二章第八段2節の、葵の上の喪に服していて歌の贈答をした頃のことを懐かしく思い出します。

どうやら、初老の男がかなわなかった初恋(これは初ではありませんが)の思い出を懐かしんで幻を追いかけているといった趣です。》

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第二段 朝顔姫君と対話~その1

【現代語訳】1
 あちらの御前の方に目をおやりになると、うら枯れた前栽の風情も格別に見渡されて、のどやかに物思いに耽っていらっしゃるであろうご様子やご器量もたいそう気にかかり心引かれて、お気持ちを抑えかねて、
「このようにお伺いした機会を逃しましては、志が足りないことになりますから、あちらへのお見舞いも申し上げなくてはなりませんでした」と言って、そのまま簀子からお渡りになる。
 暗くなってきた時分であるが、鈍色の御簾に黒い御几帳の透き影が風情あるさまに見え、追い風が空薫物の香りを運んで優雅に吹き通して、風情は申し分ない。

簀子では恐れ多いので、南の廂の間にお入れ申し上げる。宣旨の女房が対面して、ご挨拶はお伝え申し上げる。
「今さら若者扱いの感じがする御簾の前ですね。神さびるほど古い年月お慕いしてきた功労も多いと思われますので、今は御簾の内への出入りもお許しいただけるものと期待しておりましたが」と言って、物足りなくお思いでいらっしゃる。
「斎院時代のことはみな夢と思われて、今、夢から覚めてはかない気がするのかと、はっきりと分別しかねておりますのに、功労などは静かに考えさせていただく他はございませんでしょう」とお答え申し上げさせなさった。

「ほんとうに定めがたい世であることだ」と、こんなちょっとしたことにつけても自然とお思いになる。
「 人知れず神のゆるしを待ちしまにここらつれなき世を過ぐすかな

(ひそかに神の許しを待っていた間に、長年つらい世を過ごしてきたことですよ)
 今は、どのような戒めにかこつけなさろうとするのでしょう。何もかもにつけ世の中に厄介なことまでがございました後、いろいろとつらい思いをするところがございました。せめてその一部なりともお話しを」と、たって申し上げなさる、そのお心づかいなども、昔よりもう一段と優美さまでが増していらっしゃった。そうは言ってもかなりお年も召していらっしゃるが、なおご身分には相応しくないほど若々しいようである。

 

《源氏の目的は五の宮ではありませんから、話ながら西の対が気になってしかたがありません。

やっと機会を捉えて、西の対に向かいます。喪服の女性はいっそう美しく見えるというのは定番ですが、昔もそうだったのでしょうか、御簾越しの透き影が風情ある様に見えます。そして早速例によっての口説きです。

前斎院の返事の前半は、ちょっと分かりにくいのですが、およそは、長い斎院時代のことは終わってみるとはかない夢のように思えるのだが、今その夢から覚めたばかりだからそう思うのか、いや、あるいは人の世がなべてはかないものなのかも知れない、と分別のつかない、ぼんやりした状態です、というようなことでしょうか。

いずれにしてもあなた様のことは、もう少し落ち着いてから考えさせていただくしかありません、という、いたって控えめな、しかし明快なお断りであることには違いありません。源氏も思わず、そうかも知れぬと思った、と言いますが、もちろんそれでは引き下がりません。

源氏は、明石流謫時代のつらかった話を聞いて欲しいと言うのですが、少なくとも物語の上では、彼があのころこの人を思い出したという形跡はありませんから、所詮は口実でしょう。しかし、ダメかなと思っても、もう一押しするのが、『評釈』流に言えば、男の女性へのマナーなのでしょうか。

その様子は、いささか年を取ったと言っても、持って生まれた天性に年功の磨きがかかって、今や年を越え、身分を越えて、若々しくあでやかです。》

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第一段 九月、故桃園式部卿宮邸を訪問~その2

【現代語訳】2
「たいそうお年を召されたものだ」と思うが、かしこまって、
「院がお亡くなりになってから後は、さまざまなことにつけて同じ世の中のようではございませんで、身におぼえのない罪に当たりまして、見知らぬ土地で苦労いたしましたが、たまたま朝廷からお召しくださいましてからは、また忙しく暇もない状態で、今まで長く参上して昔のお話だけでも申し上げたり承ったりできなかったことを、ずっと気にかけ続けてまいりました」などと申し上げなさると、
「とてもとてもあきれるようで、どちらを見ても定めない世の中を、相も変わらぬありさまで見ているだけで過ごしてまいりまして、寿命の長いことの恨めしく思われることが多くございますが、こうして世にご復帰なさったことをお喜びするにつけ、あの時代を拝見したままで死んでしまったら、どんなにか残念であったであろうかと思われました」と、声をお震わせになって、
「まことに美しくご成人なさいましたね。お子でいらっしゃったころに、初めてお目にかかった時、この世にこんなにも美しい人がお生まれになったことと驚かずにはいられませんでしたが、時々お目にかかるたびに、不吉なまでに思われまして。今上の帝が、とてもよく似ていらっしゃると人々が申しますが、それでも見劣りあそばすだろうと、推察いたします」と、くどくどと申し上げなさるので、
「ことさらに面と向かって人は褒めないものを」と、おかしくお思いになる。
「田舎住まいをして、ひどく元気をなくしておりましたあの年月の後は、すっかり衰えてしまいましたものを。今上の御容貌は、昔の世にも並ぶ方がいないのではいかと、類いないお方と拝見しております。とんでもないご推察です」と申し上げなさる。
「時々お目にかかれたら、長い寿命がますます延びそうでございます。今日は老いも忘れ、憂き世の嘆きもみな消えてしまった感じがします」と言っては、またお泣きになる。
「三の宮が羨ましく、しかるべきご縁ができて、親しくお目にかかることがおできになれるのを羨んでいます。こちらのお亡くなりになった方も、そのように言って後悔なさる折々がありました」とおっしゃるので、少し耳がおとまりになる。
「そういうふうにも、親しくお付き合いさせていただけたならば、今も嬉しいことでございましたでしょうに。すっかりお見限りなさいまして」と、恨めしそうに様子ぶって申し上げなさる。



《本題に入る前に、姫君からも叔母に当たる五の宮との、前座のような対話が長々と語られます。

五の宮の話は、一読、私たちにはすでにいろいろな形で聞かされてきた、源氏絶賛の話で、こと新しいものではないように思われますが、『評釈』の読み方はなかなか面白いものです。

五の宮の、帝よりも立派だという危うい言葉まで混じった絶賛の言葉に、源氏は「『ことさらに面と向かって人は褒めないものを』とおかしく」思いながら、謙遜の返事をするのですが、宮はそれを無視してさらに讃辞を続けます。

そこで『評釈』は「皇女というだれをはばからなくてはならないということもない、こわいものなしの身分、…そこから、一種高飛車な態度と井の中の蛙的な頑固さが生まれたのであろうか」と言います。

そう言われると、確かに次の五の宮の「三の宮が羨ましく…」という話は、「ものの順序とか、ものの言い回しとかの礼儀をわきまえない」話と言えます。

三宮が羨ましいというのは、源氏を婿に迎えたことを言うのでしょうが、そうすると「こちらのお亡くなりになった方(式部卿宮)も、そのように言って後悔なさ」ったとは、彼が朝顔の君の婿に源氏をと考えていたことを今になって源氏に伝えていることになるわけで、今の状態でそういう話をするのは、やはり穏当を欠きそうです。

そこで『評釈』は、「(この人は)思ったことをずばずば言う」人であり、「節度ある婦人ならば決してとらない態度」をとる人だとして、「この女五の宮と住む朝顔の憂鬱を読者は思うであろう」と言います。

そうでありながら、この人の話しぶりは読んでいて快い、社交の言葉としての話の自然な流れがあるように思われます。話の内容は不作法かも知れませんが、長々としゃべりながら乱れのない話し方にはさすがに由緒正しい出自と思わせる品があります。

 ここにもまた、この時だけの登場人物でありながら、一つの個性が生き生きと描かれているわけです。》

※ またこの終わりの部分の文字サイズが小さくなってしまいました。原稿の「記事を書く」欄ではきちんとサイズ3で揃っているのですが…。直し方が分かりません。ご存じの方があったら、教えていただけると喜びます。

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