【現代語訳】
東の対に独り離れていらっしゃって、宣旨を呼び寄せてはご相談なさる。
前斎院にお仕えする女房たちで、それほどでない身分の男にさえすぐになびいてしまいそうな者は、間違いも起こしかねないほど源氏を褒め申し上げるが、宮は、その昔でさえ全然お考えにもならなかったのに、今となっては昔以上にどちらも色恋に相応しくないお年、ご身分であるので、「ちょっとした木や草につけての折々の興趣を見過さずに書くお返事なども、軽率だと受け取られるのではないだろうか」などと、人の噂を憚っていらっしゃって、気をお許しなるご様子もないので、相も変わらないお気持ちを、世間の女性とは違って、珍しくまた妬ましくもお思い申し上げなさる。
世間に噂が漏れ聞こえて、
「前斎院に、熱心にお便りを差し上げなさるので、女五の宮なども結構にお思いのようです。似つかわしくなくもないお間柄でしょう」などと言っていたのを、対の上は伝え聞きなさって、暫くの間は、「いくら何でも、もしそういうことがあったとしたら、お隠しになることはあるまい」とお思いになっていらっしゃったが、さっそく気をつけて御覧になると、お振る舞いなどもいつもと違って魂が抜け出たようなのも情けなくて、「真剣になって思いつめていらっしゃるらしいことを、素知らぬ顔で冗談のように言いくるめなさったのだ」と思い、同じ皇族の血筋でいらっしゃるけれども、こちらは声望も格別で、昔から重々しい方として聞こえていらっしゃった方なので、「お心などが移ってしまったら、みっともないことになる。長年のご寵愛などは、私に立ち並ぶ者もなくずっと今まできたのに、今さら他人に負かされようとは」などと、人知れず嘆かずにはおれなくていらっしゃる。
「すっかりお見限りになることはないとしても、幼少のころから見慣れてこられた長年の親しさで、軽々しいお扱いになるのだろう」など、あれこれと心を乱していらっしゃるので、普通のことは恨みごとも憎げなく申し上げたりなさるが、心底つらいとお思いなので、顔色にもお出しにならない。
源氏は、縁近くに出て物思いに耽りがちで、宮中にお泊まりになることが多くなり、仕事と言えば手紙をお書きになることで、「なるほど、世間の噂は嘘ではないようだ。せめてほんの一言おっしゃってくださればよいのに」と、ただもういやなお方だとお思い申し上げていらっしゃる。
《源氏はわざわざ前斎院側近の宣旨を幾度も呼び、自室に籠もっての作戦会議です。宣旨はもちろん源氏と主人が結ばれることと期待していますから、協力的でも不思議はありません。
しかし当人は、前節にあった「恋愛をこえた共感的心情」があったのかも知れませんが、源氏の期待するような気持はもうまったくないようで、ひとえに「人の噂を憚って」います。例の「何としても、人の二の舞は演じまい」という思いに加えて、『集成』の言うように、以前、右大臣方にまで浮き名として噂が流れたことが、よほど応えたのかも知れません。
さてしかし、それでも噂になってしまったようで、それが、紫の上の耳にまで届いてしまいました。
今度は紫の上が心を乱す番です。この間、明石の御方のことで気をもんだのが、やっと落ち着いたと思ったら、またしても、です。
「もしそういうことがあったとしたら、お隠しになることはあるまい」というのは、現代では意味不明の思いと言うべきですが、明石の御方の時は確かにそうで、全てを源氏の方から話したのでした。
しかし今度は、明石の御方とは出自の違う、「同じ皇族の血筋」であって、「声望も格別で、昔から重々しい方として聞こえていらっしゃった方」ですから、話はただの浮気ではすまないかもしれません。噂では「似つかわしくなくもないお間柄」とさえ言って、正式な結婚さえ話題になっているようです。
思えば紫の上は源氏の正式の妻にはなっていません。どうしてそうなのか、語られないのですが、源氏にとってその必要もないほど理想的な妻であり、又逆に出自は悪くないとしても、母もなく、また掠ってきたという事情も影響があるのでしょうか。
ともあれ、彼女はそういう特殊な不安定な身の上を、この時初めて意識させられたわけです。不安な思いをじっと隠して成り行きを窺っていると、源氏のもの思いがただならぬ様子で、ことが手に付かず「仕事と言えば手紙をお書きになること」といった具合です。
どうやら本物ではないかと、紫の上の不安はいや増します。
それにしても、「普通のことは恨みごとも憎げなく申し上げたりなさるが、心底つらいとお思いなので、顔色にもお出しにならない」とは、女性とは恐ろしいもので、この紫の上も「可愛いふりしてあの子 わりとやるもんだね」と、古い歌謡曲が思い出されます。》