源氏物語 ・ おもしろ読み

ドストエフスキーの全著作に匹敵する(?)日本の古典一巻を 現代語訳で読み,かつ解く,自称・労大作ブログ 一日一話。

巻二十 朝顔

第五段 藤壺、源氏の夢枕に立つ

【現代語訳】

 奧にお入りになっても、宮のことを思いながらお寝みになっていると、夢ともなくかすかにお姿を拝するが、たいそうお怨みになっていらっしゃるご様子で、
「漏らさないとおっしゃったが、浮き名が露わになってしまったので恥ずかしく、冥土で苦しい目に遭うにつけ、つらくて」とおっしゃる。

お返事を申し上げるおつもりが、ものに襲われるような気がして、女君が、
「これは、どうなさいました、このように」とおっしゃったことで目が覚めて、ひどく残念で、胸が収めようもなく騒ぐので、じっと抑えて、涙までも流していたのであった。今もなお、ひどく袖をお濡らしになっていらっしゃる。女君がどうしたことかとお思いになるけれども、身じろぎもしないで横になっていらっしゃった。
「 とけて寝ぬ寝覚さびしき冬の夜にむすぼほれつる夢の短さ

(安らかに眠られずふと寝覚めた寂しい冬の夜に、見た夢の短かったことよ)」

短すぎる夢にかえって心満たされず、悲しくお思いになって、早くお起きになって、それとは言わず、所々の寺々に御誦経などをおさせになる。
「苦しい目にお遭いになっているとお怨みになったが、いかにもそうお思いであろう。勤行をなさり、さまざまに罪障を軽くなさったご様子でありながら、自分との一件で、この世の罪障をおすすぎになれなかったのだろう」と、ものの道理を深くおたどりになると、ひどく悲しくて、
「なんとしてでも、誰も知る人のいない冥界にいらっしゃるのを、お慰めに伺って、その罪にも代わって差し上げたい」などと、つくづくとお思いになる。

あのお方のために、特別に何かの法要をなさるのは、世間の人が不審に思い申すだろう。主上におかれても、気がとがめるとお感じになるかもしれないと、気がねなさるので、阿弥陀仏を心に浮かべてお念じ申し上げなさる。「同じ蓮の上に」と、
「 亡き人をしたふ心にまかせてもかげ見ぬみつの瀬にやまどはむ

(亡くなった方を恋い慕う心にまかせてお尋ねしても、その姿も見えない三途の川の

ほとりで迷うことであろうか)」
とお思いになるのは、つらい思いであったとか。

 

《横に紫の上がいる床についても、源氏はなお、藤壺のことを思い続けています。するとそこに藤壺の亡霊が現れて、先ほど彼女ことを紫の上に話したことを咎めるのでした。女性にとって男が他の女性にあのように自分のことを語るのは、許せないことであるようです。二人だけのプライベートな秘密の部分を人に語るのは、むしろ自分よりもその相手との親密さを物語るものと思える、ということなのでしょうか。

彼女は、冥土で「苦しい目に遭」っているようですが、それもこれも源氏のせいで、もちろん彼も「自分との一件で、この世の罪障をおすすぎになれなかったのだろう」と、そのことは承知しています。

「その罪にも代わって差し上げたい」と殊勝なことを考えますが、しかしこれも、自分の過去の振る舞いを悔いる気持を持ったというよりも、恋しくいとおしく思う気持ちの穂からの思いなのでしょう。

こうして澪標の巻から語られてきた源氏の「青年期女性の後日談」は終わります。歌の「むすぼほれつる夢の短さ」は、もちろん源氏は藤壺が現れた夢の短さを言っているのですが、読み終えた読者には、夢のように過ぎた青春を回想したものでもあるように思われます。

これでこの巻を終わるのですが、ここまでに登場した数多くの女性たちは、これ以後、紫の上と明石の御方を除いて、もう主要な役割を担うことはありません。

彼は、悲しい思いで、藤壺の苦しみを少しでも救うべく、「所々の寺々に御誦経などをおさせになる」のでした。それはあたかも彼の彷徨の青春を葬送する儀式のようにも見えます。

そして次の巻からは、源氏の次の世代の人々が話題の中心となって登場することになるのです。》

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第四段 紫の上と和歌を唱和


【現代語訳】
 月がいよいよ澄んで、静かで趣がある。女君が、
「 氷閉ぢ石間の水はゆきなやみ空澄む月のかげぞながるる

(氷に閉じこめられた石間の遣水は流れかねていますが、空に澄む月の光はとどこお

ることなく西へむかって流れて行きます)」
 外の方を御覧になって、少し頭を傾けていらっしゃるところは、似る者がないほどかわいらしげである。髪の具合や顔立ちが、恋い慕い申し上げている方の面影のようにふと思われて、素晴らしいので、少しは他に分けていらっしゃったご寵愛もあらためてお加えになることであろう。

ふと鴛鴦が鳴いたので、
「 かきあつめ昔恋しき雪もよにあはれを添ふる鴛鴦のうきねか

(何もかも昔のことが恋しく思われる雪の夜に、いっそうしみじみと思い出させる鴛

鴦の鳴き声であることよ)」


《初めの紫の上の歌は、『集成』も『評釈』も「叙景歌」であるとしています。が、どういう思いで詠まれたのか、ちょっと分かりかねます。

前の節は「昔の話や今の話などに夜が更けてゆく」と結ばれていましたから、そこから「月がいよいよ澄んで」は自然な流れと言えますが、紫の上にしてみれば、源氏のかつての恋人の話をさんざん聞かされた後です。そこでは、到底「空澄む月のかげぞながるる」というような気分ではないでしょう。

もしここに彼女の思いを見ようとすれば、話題を変えたいという思い、と言うくらいしかないような気がします。

つまり、この歌に紫の上の思いは特に入ってはおらず、作者としては、彼女の口を借りて、「月がいよいよ澄んで、静かで趣がある夜」に「互いに心の通い合った、美貌の男女がしめやかに語らっている」という、一枚の絵になる光景を描いて見せた、ということなのでしょうか。

話は源氏サイドで進んでいき、そういう紫の上を見ながら、彼は相変わらず前の話題の昔の恋人の、藤壺の面影を追っています。

源氏の歌、『集成』が「『昔』は藤壺のこと、『鴛鴦の浮寝』は、紫の上との間柄を意味しよう」と言います。目の前に妻を見ながら、それによってますます昔の女の思い出を切なく思い出す、という歌を詠み、しかも女性の作者が、それを美しい光景として描いているようです。

やはり、一枚の絵として鑑賞するしかないように思われます。》



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第三段 源氏、往古の女性を語る

【現代語訳】

「先年、中宮が御前に雪の山をお作りになったのは、世間で昔からよく行われてきたことですが、ちょっとした遊び事でも、やはり珍しい趣向を凝らしてなさったものでしたよ。どのような折々につけても、残念でたまらない思いですね。
 とても隔てを置いていらっしゃって、詳しいご様子を親しく拝見したことはありませんでしたが、宮中においでのころは、心安い相談相手としては、お考え下さいました。
 私も信頼申し上げていて、あれやこれやと何か事のある時には、どのようなこともご相談申し上げましたが、表だって巧者らしいところはお見せになりませんでしたが、お話しする甲斐があり申し分なく、ちょっとしたことでも格別になさったものでした。この世にまた、あれほどの方がありましょうか。
 しとやかでおおようでありながら、また深い嗜みのあるところは、並ぶ人がないようでいらっしゃったが、あなたは、さすがに紫の縁もこの上なくていらっしゃるようですけれども、少しこうるさいところがあって、利発さの勝っているのが、困りますね。
 前斎院のお人柄は、また違って格別に見えます。心寂しい時に、何か用事がなくても便りをしあって、自分も気を使わずにはいられないお方は、ただこのお一方だけが、世にお残りでしょうか」とおっしゃる。
「尚侍は、利発で奥ゆかしい点では、人よりも優れておいでです。軽々しいことなどは無縁な方でいらっしゃったのに、不思議なことがあったものです」と紫の上がおっしゃると、
「そうですね。優美で器量のよい女性の例としては、やはり引き合いに出さなければならない方です。そう思うと、お気の毒で残念なことが多いですね。まして、浮気っぽい好色な男は、年をとるにつれて、どんなにか後悔されることが多いことでしょう。誰よりもはるかにおとなしい、と思っていました私でさえですから」などと、お口になさって、尚侍の君の御事にも、涙を少しはお落としなった。
「あの、人数にも入らないほどさげすんでいらっしゃる山里の女は、身分には不似合いなほどに、物の道理をわきまえているようですが、他の人とは同列に扱えない人ですから、気位を高くもっているのも、見ないようにしています。お話にもならない身分の人はまだ知りません。人というものは、すぐれた人というのはめったにいないものですね。
 東の院に寂しく暮らしている人の気立ては、昔に変わらず可憐なものがあります。あのようにはなかなかできないものですが。ああした人としては気立てがよいので、世話するようになって以来、同じように遠慮がちに過ごしてきましたよ。今はもう、互いに別れられそうなく、心からいとしいと思っております」などと、昔の話や今の話などに夜が更けてゆく。

 

《源氏が、少女たちの雪だるま作りを見ながら、紫の上に、これまで契りを結んできた五人の女性について語っていきます。

冒頭の中宮は藤壺のことで、雪遊びから藤壺を思い出して、彼女のすばらしい人物評を語り、ついでにその叔母と比べての「先ほど、紫の上が前斎院のことで嫉妬していたことを揶揄気味に」(『集成』)評します。

しかもその前斎院の話について、「気を使わずにはいられない」、つまり思わず居ずまいを正させられる人だと語ります。

女性に向かって、他の女性を絶賛するというのは、それだけで十分マナー違反のように思われますし、まして比較して評するなど「色好み」のすることとは思われませんから、揶揄気味というより、まったくからかったと考える方がいいかも知れません。内容は、所詮は源氏に都合のいい話であるわけで、私たちからすると素直に納得という気にはなれません。

あるいは源氏は紫の上を教育しているつもりなのでしょうか。妻と言っても、八歳年下の、自分が養育した女性であれば、それも不自然ではないでしょう。

それにしても、そういう源氏の話に乗って、紫の上が尚侍の君の話を持ち出すなど、信じられない気がします。それに、これまで私たちが知っている話とは随分違う評ですが、どういう事情なのか、よく分かりません。

紫の上が「軽々しいことなどは無縁な方…」と言い、源氏が「お気の毒」と言ったのは、彼女が男女間の軽率な振る舞いによって「尚侍」の位に留まっていることを、紫の上は事情を知らぬ態で、また源氏の方は別の男のせいだという態で、言ったものと思われますが、それにしても、いやそれだからでしょうか、ずいぶん高い評価です。

そして最後に明石の御方と花散里を語って、これで、紫の上が知らない夕顔と空蝉、六条御息所の三人を除く、源氏がかつて本気で心を寄せ、その青春時代を彩った全ての女性が語られたことになります。

作者は、源氏の青春の物語を閉じようとしているようです。そのための総集編、ここは源氏の意見と言うよりも、むしろ作者自身の女性観を書こうとしたのでしょう。そしてそれは当時の読者に対しての話題提供、サービスでもあったことでしょう。

彼女が雪の山を作ったことはこの物語には書かれていません。『集成』版『枕草子』八十二段にある雪山を作った話があり、ちょっと理解しがたい考え方ですが、古注は、それを「物語に取り込んだものか」と言っているそうです。》


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第二段 夜の庭の雪まろばし

【現代語訳】

 雪がたいそう降り積もった上に、今もちらちらと降り続いていて、松と竹との対照がおもしろく見える夕暮に、君のご容貌も一段と光り輝いて見える。
「季節折々につけても、人が心を惹かれる花や紅葉の盛りよりも、冬の夜の冴えた月に雪の光が照り映えた空こそ、妙に、色のない世界ながら、身に染みて感じられ、この世の外のことまで思いやられて、おもしろさもあわれさも、尽くされる折りです。興醒めな例としてとして言った人の考えの浅いことよ」と言って、御簾を巻き上げさせなさる。
 月は隈なく照らして、一色に見渡される中に、萎れた前栽の影も痛々しく、遣水も氷に遮られてひどく途絶えがちに流れて、池の氷も言いようもなく身に染みる感じのところに、童女を下ろして、雪ころばしをおさせになる。
 かわいらしげな姿や髪の恰好が月の光に映えて、年かさに見える物馴れた童女が、色とりどりの衵をしどけなく着て、袴の帯もゆったりした宿直姿の優美な上に、衵の裾より長い髪の末が白い雪を背景にしていっそう引き立っているのは、たいそう鮮やかな感じである。
 小さい童女は、子どもらしく喜んで走りまわって、顔を隠す扇なども落として、無邪気にしているのがかわいらしい。
 雪をたいそう大きく丸めようと欲張るが、転がすことができなくなって困っているようである。またある童女たちは、東の縁先に出ていて、気遣わしげに笑っている。

 

《第二章第四段で、数日前桃園宮の西の対に朝顔の君を訪ねた時も「月が顔を出して、うっすらと積もった雪の光に映えて、かえって趣のある夜」でしたが、この夜は大雪になりました。

ここに語られた源氏の冬の美観は諸注の注目するところで、例えば『構想と鑑賞』は「これは妖艶華麗を尚ぶ物のあわれの精神ではなく、もっと冷徹沈潜の味をもっている。この味わい方を中世歌論の幽玄にいたる心的態度と考える人もあるが、それも一つの観方であろう」と言います。ただ、『集成』の注には同趣の歌が挙げられていて、必ずしも彼女の独創というわけではないようです。

また、『評釈』は「興醒めな例としてとして言った人」について、『枕草子』に現存の物にはない「すさまじきもの おうなのけそう、しはすの月夜」という一節があったという古注を示していますから、そこから考えると清少納言に対する批判と言えます。『紫式部日記』に清少納言についての激しい批判が書かれているのは、周知の通りで、その流れということになるでしょう。

『光る』は、このあたり一帯に清少納言を意識した批判的な記述が続いていると言います。それは、『集成』「枕草子」解説によれば、『枕草子』に紫式部の親族についての「悪しざまに記載した」ことによるものだったようで、「筆禍とは正にこのことであろう」と言っています。宮仕えは紫式部があとからですれ違いだったようですが、強い対抗心を持っていたことが窺えます。

雪と月光に包まれた庭という「冷徹沈潜」な美しさの中を、童女の衣のとりどりの色が乱舞する様は、まさに「幻想的であでやかな、人工の美」(『評釈』)と言えます。

ただ、ここにこの場面が出てくる唐突感は拭いがたく、後へ特に意味を持って繋がっていくわけでもありません。一枚の絵にして美しい場面ということでしょう。

その分余計に、この春秋とは異なる、斬新な美の世界を描きたかった作者の意図が現れているとも言えるでしょう。

それにしても、大雪が積もって冷えこんだ夜中に、童女達を駆りだして、雪だるま作りをさせるというのは、驚いた話ですが、それ自体を格別珍しいことというふうには書かれていないところを見ると、貴族の遊びとしては普通のことだったのでしょうか。

また、冒頭、「今もちらちらと降り続いていて」とあったのに、「月は隈なく照らして」は、ちょっと釣り合わない気がしますが、手元の諸注は、触れていません。「新古今和歌集」の「田子の浦に」の歌(六七五 山部赤人)が思い出されます。田子の浦からは富士は見えないそうですし、雪が降っているなら富士の高嶺は見えないはずで、写実ということの意味を改めて考えさせられる気がします。》

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第一段 紫の君、嫉妬す

【現代語訳】
 大臣は、やみくもにご執心というわけではないが、つれないご様子が腹立たしく、負けて終わるのも悔しくて、なるほど確かにご自身の人品や世の評判は格別で申し分なく、物事の道理を深くわきまえ、世間の人の人それぞれの生き方の違いも広くお分かりになって、昔よりも経験を多く積んでいらっしゃるので、今さらのお浮気事も一方では世間の非難をお分りになりながら、
「このまま空しく引き下がっては、ますます物笑いとなるであろう。どうしたらよいものか」と、お心が騒いで、二条院にお帰りにならない夜が続くのを、女君は、「たはぶれにくく(聞き流しにくく)」ただ恋しくお思いになる。我慢していらっしゃるが、涙がこぼれる時がないはずはない。
「妙にいつもと違ったご様子であるのが、理解できませんね」と言って、お髪をかき撫でながら、いとしいとお思いでいらっしゃる様子も、絵に描きたいような間柄である。
「宮がお亡くなりになって後、主上がとてもお寂しそうにばかりしていらっしゃるのも、おいたわしく拝見していますし、太政大臣もいらっしゃらなくて、帝のご後見をする人がいない忙しさなのです。このごろの家に帰らないことを、今までになかったことのようにお恨みになるのももっともなことで、お気の毒ですが、今はそうであっても安心していらっしゃい。お年も取られたようですが、まだ深いお考えもなく、私の心もまだお分りにならないようでいらっしゃるのが、かわいらしいことです」などと言って、涙でもつれている額髪をおつくろいになるが、ますます横を向いて何とも申し上げなさらない。
「とてもひどく子どもっぽくしていらっしゃるのは、誰がお教え申したことでしょう」 と言って、無常の世に、こうまで隔てられるのもつまらないことだと、一方では物思いに耽っていらっしゃる。
「斎院にとりとめのない文を差し上げたのを、もしや誤解なさっていることがありませんか。それは大変な見当違いのことですよ。自然とお分かりになるでしょう。昔からまったくよそよそしいお気持ちなので、もの寂しい時々に、恋文めいたものを差し上げて困らせたところ、あちらも所在なくお過ごしのところなので、まれに返事などなさるが、本気ではないので、こんなふうだと、あなたに訴えるようなことでは決してありません。不安なことは何もないのだと、お考え直しなさい」などと、一日中お慰め申し上げなさる。

 

《源氏は、半ば意地になり、一方で自分の身分や立場から考えて相応しくないと思いもしながら、いつまでもぐずぐずと朝顔の君のことを思っています。「二条院にお帰りにならない夜が続く」ほどではあるのですが、と言って「やみくもにご執心というわけではないが」という分だけ、いささか聞き苦しい気がしないでしょうか。

『構想と鑑賞』は、「中年期を迎えた源氏においては、根本に心を傾けつくす真剣さを欠いている。止むに止まれぬ情熱があるわけでもなく、」と厳しく言いますが、そう言われてやむを得ないと思われます。

しかし、紫の上にとってはただごとではありません。結婚してちょうど十年、明石の姫を引き取って、今や押しも押されぬ事実上の正室夫人という立場だと思っていたところなのです。明石の御方もいますが、心情的には面白くないとしても、身分が違いすぎて本気で相手にするほどのことはありませんでした。

しかしこちらは帝の従妹ということで、また斎院という前歴からしても、もし源氏が本気であれば、大変なライバルが現れた格好なのです。

久し振りに帰ってきて、「お髪をかき撫でながら」、何とかなだめようと、源氏は長々と喋るのですが、それに対する紫の上の反応は「ますます横を向いて何とも申し上げなさらない。」といったものでした。はた目には「絵に描きたいような間柄」に見えたというのですが、聞きながら腕の中で、反撥と安堵の交錯する気持で、じっと黙って身を固くしていたのでしょうか。

朝顔の君の拒否にあって数日後ということでしょうか、源氏は、紫の上のそういう真剣な不安・嫉妬に出会って、我に返ったような案配で、「本気ではない」から「不安なことは何もあるまい」と「一日中お慰め申し上げなさる」のでした。妻にそう話すことで、自分もまた踏ん切りを付けたといった感じもします。

フランスで中年男の恋を「真昼の悪魔」と言うと聞いたことがありますが、「悪魔」というほどでもなかったようです。》


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