【現代語訳】
恐れ多い身分のお方と申し上げる方々の中でも、ご性質などが世のためにも広く慈悲深くいらっしゃって、権勢を笠に着て人々の迷惑となることをしたりするのは自然とありがちなものだが、少しもそのような道理に外れた事はなく、人々がしてさし上げることも、世の苦しみとなるはずのことは、お止めになる。
仏事法要のことについても、人の勧めにお従いになって荘厳に珍しいくらい立派になさる人なども昔の聖代には多くあったのだが、この后宮はそのようなこともなく、ただもとからの財産、頂戴なさるはずの年官、年爵、御封の中のしかるべき範囲のものだけで、ほんとうに真心のこもった供養の最善を精一杯にしておおきになったので、物のわけも分からない山伏などまでが惜しみ申し上げる。
ご葬送の時についても、世を挙げての騷ぎで、悲しいと思わない人はいない。殿上人など、すべて黒一色の喪服で、何の華やぎもない晩春である。
源氏は、二条院のお庭先の桜を御覧になるにつけても、花の宴の時などをお思い出しになる。「今年ばかりは(桜も今年ぐらいは墨染めに咲け)」と独り口ずさみなさって、他人が変に思うに違いないので、御念誦堂にお籠もりになって、一日中泣いてお暮らしになる。
夕日が明るく射して山際の梢がくっきりと見えるところに、雲が薄くたなびいているのが鈍色なのを、何ごともお目に止まらないころなのだが、たいそう悲しく思いにおなりになる。
「 入り日さす峰にたなびく薄雲はもの思ふ袖に色やまがへる
(入日が射している峰にたなびいている薄雲は、悲しんでいる私の喪服の袖の色に似
せて、一緒に悲しんでくれているのだろうか)」
誰も聞いていない所なので、かいのないことである。
《この初めの一文が「お止めになる」と現在形で終わっているために、ちょっと読み取りにくく思われます。『評釈』は冒頭から第二段落末の「惜しみ申し上げる」までを一文と考える、と言い、そこを中止表現(会話では終止形で言いさす呼吸がよくあります)と見て、そのまま次につなげて解釈していますが、そうすれば、確かに分かりやすくなります。
その『評釈』が、ここに語られる藤壺の存在の大きさを縷々語って、このとき作者は「政治評論家」となっており、「この『薄雲』の巻の藤壺の宮の総評は、国母陛下のあるべき姿をさとすものである」と言いますが、どうなのでしょうか。
確かに他の部分とは異なった硬い文体という感じで、改まった調子のようには思われますが、それにしてはひどく短く、内容もわずかしかありませんし、「昔の聖代」のあり方を否定する言い方でもないようです。書かれているのは、読者の知らなかったことで、やはり補足的追想として読めばいいような気がします。
葬送の後に源氏が得意の時だった「花の宴」を思い出した、というのは心打たれる設定です。ひたむきに藤壺に思いを寄せ、また藤壺の好意も十分に感じていたころの、もはや消え去った幻想の桜が、「すべて黒一色の喪服」と対比されて、ひとしお悲しみを誘ったであろうと、思い遣られます。
ちなみに、『光る』もこの部分について、「丸谷・これ(この墨染桜のところ)はものすごい美文でして、ぼくが日本文学の選文集をつくるとすれば、ここはぜひ抜きたい。和歌的なものがあって、そのおかげで散文的なものがある、という日本の伝統的な文章の呼吸を非常によく示しているんです」と言っています。
この巻の名は、ここの源氏の歌によるものです。》