源氏物語 ・ おもしろ読み

ドストエフスキーの全著作に匹敵する(?)日本の古典一巻を 現代語訳で読み,かつ解く,自称・労大作ブログ 一日一話。

第二章 源氏の女君たちの物語

第三段 源氏、大井山荘から嵯峨野の御堂、桂院に回る

【現代語訳】

 あちらではまことのんびりと風雅な嗜みのある感じに暮らしていて、邸の有様も普通とは違って珍しいうえに、本人の態度などは、会うたびごとに高貴な方々に見劣りする差は目に立つほどではなく、容貌や心ばせも申し分なくよくなっていく。
「ただ世間並みの評判に埋もれて目立たないならば、そのような例はいないでもないと人も思うだろうが、世にもまれな偏屈者だという父親の評判など、それが困ったものだとしても、人柄などは十分であるが」などとお思いになる。
 短くいつも物足りない思いでの別れだからであろうか、今日はあわただしくお帰りになるのも寂しくて、「夢のわたりの浮き橋か(訪ねてきてももの思いの絶えないことだ)」とたいそうお嘆きになられて、箏の琴があるのを引き寄せて、あの明石での夜更けての音色も、いつものように自然と思い出されるので、琵琶を是非にとご催促になると、少し掻き合わせたのが、「どうしてこれほど上手に何でも弾くようになれたのだろう」とお思いになる。姫君の御事など、こまごまとお話しになってお過ごしになる。
 ここはこのような山里であるが、このようにお泊まりになる時々があるので、ちょっとした果物や強飯ぐらいはお召し上がりになる時もある。近くの御寺や桂殿などにお出かけになるのを口実にということで、一途に夢中といった様子はなさらないが、といって、まったくはっきりと中途半端な普通の相手としてはお扱いなさらないなどは、愛情も格別深いように見える。
 女君もこのようなお心を知り申し上げて、出過ぎているとお思いになるようなことはせず、また、ひどく卑下したりもしないで、お気持に背くこともなく、たいそう見ていて感じのよい態度でいたのであった。並々でない高貴な婦人方の所でさえこれほど気をお許しになることもなく、礼儀正しいお振る舞いであることを聞いていたので、
「近い所で一緒にいたら、かえってますます目慣れて、人から軽蔑されることなどもあろう。時たまでも、このようにわざわざお越しくださるほうが、たいした気持ちがする」と思うのであろう。
 明石で入道も、ああは言ったが、このご意向やお扱いぶりを知りたくて、事情がよくわかるように、使者を行き来させては、心配することもあったり、また面目に思うことも多くあったりするのであった。

 

《ここは明石の御方絶賛の節です。

前に「大井では、いつまでも恋しく思われるにつけ、娘を手放すという自分のあやまちを嘆き加えていた」とありました(第一章第五段)から、ずっとそんな具合で暮らしているのかと思うと、どうもそうではなくて、「まことのんびりと風雅な嗜みのある感じに暮らして(原文・いとのどやかに、こころばせあるけはいにて住みなして)」いたと言います。

寂しさは心に秘めて表に出さず、邸が暗い雰囲気にならないように注意していたのでしょう。それも御方の賢明な心配りで、そうでなければ源氏も訪ねていく気も失せようというものです。

しかもこの御方は、初めからそうでしたが、いまもなお「近まさり」(明石の巻第三章第二段3節)する方で、「会うたびごとに」訪ね甲斐がある気がするという、大変素晴らしい人柄なのです。

「ただ世間並みの…(原文・ただ世の常のおぼえにかきまぎれたらば、さるたぐひなくやはと思ふべきを)」が分かりにくいところで、例えば「そのような例」とはどういう例を言うのか。『集成』は「そうした女が自分のような高貴な人の妻になる」こと、『評釈』は「あの程度のもの」(御方の立派さの程度を言うのだと思われます)、その他に「生んだ子を取り上げて、母はかまわずにおく」という例、という解釈もあると挙げて、「主旨は分かるが、細かい点になるとわかりかねる点が残る」といます。

思い付きですが、「世の常のおぼえ」を「男性からの世間並みの愛」、「さるはぐひ」を受領程度の娘」と考えることはできないでしょうか。「源氏のような高貴な人から世間並みの愛情を受ける女は、受領の娘たちにも少なくはないだろうが」。

取りあえず、『評釈』の言う主旨、「御方は、人としては申し分ないが、生まれ、家がらには問題があるということであろう」と考えておきます。ただし話は逆で、「御方は、生まれ、家がらには問題があるが、人としては申し分ない」と考える方がいいように思います。あんな親爺によくあんな娘ができたものと感嘆しているというところでしょうか。

琴を弾かせても見事で、源氏の覚えめでたく、女君の立ち居振る舞いも完璧で「たいそう見ていて感じのよい(原文・いとめやすくぞありける)」であり、「近いところで…」という彼女の思いも、篤い寵愛にも決して思い上がらず身の程を心得た、好ましいものだったのでした。

そういう様子を明石で伝え聞く入道も満足して、これで明石の御方の話は一応めでたく一件落着した感じです。》

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第二段 源氏、大井山荘訪問を思いつく

【現代語訳】
 山里の寂しさを絶えず気に掛けておられるので、公私に忙しい時期を終えてお出かけになろうとして、いつもより特別の装いをなさり、桜の御直衣に何ともいえない素晴らしい御衣を重ね、香をたきしめ身繕いなさってお出かけのご挨拶をなさる様子は、隈なく射し込んでいる夕日に、ますます美しくお見えになるのを、女君は、おだやかならぬ気持ちでお見送り申し上げなさる。
 姫君は、あどけなく御指貫の裾にまつわりついてお慕い申し上げなさるうちに、御簾の外にまで出てしまいそうなので、立ちどまって、とてもいとおしいとお思いになる。なだめすかして、「明日帰り来む(明日は帰って来ましょう)」と口ずさんでお出になると、渡殿の戸口に待ち受けていて、中将の君をして、申し上げさせなさった。
「 舟とむる遠方人のなくはこそ明日帰り来む夫と待ち見め

(あなたをお引き止めするあちらの方がいらっしゃらないのなら、明日帰って来るあ

なたと思ってお待ちいたしましょうが)」
 たいそうもの慣れて申し上げるので、いかにもにっこりと微笑んで、
「 行きて見て明日もさね来むなかなかに遠方人は心置くとも

(行ってみて明日にもきっと帰って来よう、かえってあちらが機嫌を悪くしようと

も)」
 何ともわからないではしゃぎまわっていらっしゃる姫を、上はかわいらしいと御覧になるので、あちらの人への不愉快さも、すっかり大目に見る気におなりになる。
「どう思っているだろうか。私でもとても恋しく思うに違いないこの子を」と、じっと見守りながら、ふところに入れてかわいらしい御乳房を含ませながら、あやしていらっしゃるご様子は、どこから見ても素晴らしい。お側に仕える女房たちは、
「どうしてかしら。同じお生まれになるなら」
「ほんとうにね」などと、話し合っている。

 

《目の前の幸福で平和な生活の中で、源氏は唯一気がかりな大井を訪ねることにします。しかしそれは、その穏やかな生活に石を投じることです。

よせばいいのに格別のおめかしをして、その姿で紫の上の所に出かける挨拶をしに行くのです。まるでこれ見よがしですが、普段着で出かけて、途中で着替えるなどは、源氏ほどの人には、できないことなのでしょう。それに元来こっそりと行こうなどとは考えていないのでしょうし…。

しかし、修羅場が生まれる危険があることは、避けられません。果たせるかな、紫の上は「おだやかならぬ(原文・ただならず)」気持で見送ります。

さて、ここからがこの場のすごいところです。

まず、紫の上が源氏に対して、侍女の中将の君に嫌みな歌を詠ませますが、この人は実は「源氏の思い人の一人」(『集成』)で、葵の巻第三章第一段1節の「中将の君」と同じ人でしょうか、つまりお手つきの女房です。須磨の巻第一章第五段1節でこちらに預けられて以来、ずっと紫の上のお側にいて、すっかり信服し、今やそういう役をするほど信頼を得ているようです。

もちろん源氏との関係はいまでも続いているのでしょうが、紫の上はそれを承知の上ですが、身分違いですから、何の心配もしてはいません。中将も今の主人の思いに添うように努めています。

源氏はそういう中将の歌に決して慌てたりなどしません。「いかにもにっこりと微笑んで」鷹揚に歌を返します。そして二人の歌の中では明石の御方は「遠方人」と呼ばれて、よそ者扱いです。

「二条院の秩序を、紫の上の権威を、いま、われわれは見る。この秩序の上に源氏が…安住していることを、われわれは見る」と『評釈』が言っていますが、これが前々節から続く、この時代のこういう人たちの思い描く理想の家庭なのでしょう。

そういう秩序の中で、紫の上は明石の御方に同情の気持ちを持ちます。もちろん勝者の自信と余裕からの嫌みな同情とも言えますが、彼女の場合となると、そういうことを思わせず、素直にそう思っているように感じさせるものがあります。

  かわいい盛りの姫を抱いて、出るはずのない「かわいらしい(原文・うつくしげなる)御乳房を含ませ」て、ままごと遊びに興じている小娘のような紫の上の姿は、いかにも幸せそうですが、しかし一抹の世紀末感も感じさせもする、と言えば思いなしでしょうか。》

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第一段 東の院の花散里

【現代語訳】

 年も改まった。うららかな空に何一つ不安のない源氏のご様子はますます素晴らしく、磨き清められたお屋敷に、年賀に参集なさる年配の人たちは、七日にお礼を申しにおいでになるのだが、それがひっきりなしである。同じくおいでになる若い人たちは、何ということもなく屈託なげにお見えになる。それより以下の次々に身分の低い人たちも、心中には悩みもあるのであろうが、表面は満足そうに見えるこのごろである。
 東の院の西の対の御方(花散里)も、お暮らしぶりは心地よく申し分ない様子で、お仕えしている女房たちや童女の姿などきちんとさせて、気配りをしながら過ごしていらっしゃるが、二条院に近い利点はこの上なくて、のんびりとしたお暇な時などには、ちょっとお越しになったりなさるが、夜のお泊まりなどように、わざわざお見えになることはない。
 ただ、お気立てがおおようでおっとりとして、「このような運に生まれた身の上なのだろう」と思うようにして、めったにないくらい気が措けずゆったりしていらっしゃるので、季節折ごとのお心配りなども、こちら(紫の上)のご様子にひどく劣るような差別はなくご待遇なさって、軽んじ申し上げるようなことはないので、同じように人々が大勢お仕え申して、別当たちも勤めを怠ることなく、かえって秩序立っていて、感じのよいご様子である。

 

《源氏にとって万々歳の裡の年が替わり、その周辺はのどかで幸せな新年です。人々の満足げな様子が語られますが、それもこれも「宰相たるものの仕事」であって、「政治家光る源氏の腕は満点であると作者は言いたいのである」と『評釈』が言います。

そう書きながら作者はやはり、「(その人達も)心中には悩みもあるのであろうが」と一言付け加えることを忘れてはいません。文字どおりに「何一つ不安のない」などということは、源氏のような人以外にはないのだと、よく承知しているのです。こうした場面を描きながら、普段悶々とすることの少なくなかったらしい彼女自身の思いが、ふと一言付け加えさせたのでしょうか。

明るい新年を語っておいて、いきなり「東の院の西の対の御方」、花散里の話になります。彼女は昨年の秋にこの東院に入っていたのでした(松風の巻冒頭)。

当面源氏の周辺で、あれ以後どうなっただろうかと気になるままに残っている人と言えば、この人です。その人を描くことによって、源氏のこの正月の栄華を異なる角度から描いたというところでしょう。本当なら、第一人者である紫の上の話をするところなのでしょうが、それは源氏とだぶってしまうので、避けたのだと考えれば、それも理解できます。

 本当はもうひとり気になる人がいて、それは末摘花です。この人も同じ頃に東院北の対に入っているはずなのです(蓬生の巻末)が、あの特異な個性は、こののどかな正月の話題には不向きとされたのだろうと思うと、改めて思い出されて、おかしくなります。ちなみに、この人が次に登場するのは、もうしばらく先のことになります。》
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