【現代語訳】
太政大臣におなりになるよう決定があるが、今しばらくとお考えになるところがあって、ただ位階が一つ昇進して、牛車を聴されて参内や退出をなさるのを、帝はご不満でもったいないこととお思い申し上げなさって、やはり親王におなりになるよう仰せになるが、
「政治のご後見をおできになる人がいない。権中納言が大納言になって右大将を兼任していらっしゃるが、もう一段昇進したならば何ごとも譲ろう。そうした後に、どうなるにせよ、静かに暮らそう」とお思いになっていた。さらにあれこれお考えになると、故后宮のためにも気の毒であり、また主上がこのようにお悩みでいらっしゃるのを拝し上げなさるにも恐れ多くて、「誰がこのようなことを洩らしお耳に入れ申したのだろうか」と、不思議なことだとお思いになる。
王命婦は御匣殿が転出した後に移って、お部屋を賜って出仕していた。大臣はお会いになって、
「このことを、何かの機会に故后宮が帝にほんの少しでも洩らしてお耳に入れ申されたことはなかったか」とお尋ねになるが、
「けっして。少しでも帝のお耳に入りますことを、大変だと思し召しで、また一方では、知らないでいることは罪を得ることではないかと、主上の御身の上をお思いになって嘆いていらっしゃいました」と申し上げるにつけても、並々ならず思慮深い方でいらっしゃったご様子などを、限りなく恋しくお思い出し申し上げなさる。
《亡くなった太政大臣の後任に、源氏をというご沙汰があったのですが、それは断って、「ただ位階が一つ昇進」することだけをお受けします。「内大臣は正従二位相当であるから、太政大臣相当の正従一位、おそらく従一位に昇進したのであろう」と『集成』は言います。
基本的に彼は政治に世界から身をひきたいと考えていますが、今自分が実務から離れる太政大臣や親王になると、「政治のご後見をおできになる人がいない」ことになるので、それは出来ないという気持です。
『評釈』は「実際は、源氏は実務は不得手な人で、それを自分でもよく知っていた」と言いますが、年長の友人である権中納言(かつての頭中将)が「もう一段昇進したならば」、つまり大臣になるまではそれはできないと考えるあたり、彼は自分の政治能力にかなりの自負を持っているように思われます。
さて、帝がしきりに譲位の意志を仄めかし、源氏の昇進を求めることから、源氏は帝があの秘密を知ったのではないかと疑いを抱き、王命婦に尋ねます。本当は命婦が言ったのではないかと思っているのでしょうが、尋ねたのは藤壺についてでした。藤壺が源氏に黙って勝手に告げたりすることは考えられないことですから、これは貴族的話法なのでしょう。命婦の返事は、ここから事情をつかむことはできないこということを物語っています。
源氏は命婦の話から生前の藤壺の深い思い遣りを知って、あらためて「限りなく恋しくお思い出し申し上げなさる」のでした。
そして、実はこの話はとりあえずここで終わりになります。大事件になるかに見えた僧の密奏でしたが、結局事情は表に現れることなく、いきさつも分からないままに、落着したような趣です。世の中に天変地異を招き、あの夜居の僧が「天の眼」を恐れて命を賭けて涙ながらの行動であったにも関わらず、何とも言えない、あっけない幕切れです。
確かに当面実害を受けるものは誰もおらず、表沙汰になれば騒ぎが生じるだけなのです。倫理の問題は、関係者のみんなが事柄をきちんと承知することで仏罰を免れることにして、あとは口をつぐみ、何もなかったことにしてしまう、それどころか源氏は返って帝からの信頼をいっそう強く得ることになるという、実に現実的で幸運な問題解決です。
ここに至ってみればあの藤壺の煩悶は一体何だったのかと、彼女が気の毒に思われてきます。
ただ、この問題はこれでまったく片づいた、というわけではありません。やはり一つの伏線となって、この物語を動かす大きなエネルギーを秘めていたのですが、それはずっと後の話です。》