【現代語訳】
こうしているうちに、常陸介は、年取ったためか、病気がちになって、何かと心細い気がしたので、子どもたちに、もっぱらこの君のお事だけを遺言して、
「万事の事は、ただこの母君のお心にだけ従って、わたしの在世中と変わりなくお仕えせよ」とばかり、明けても暮れても言うのであった。女君が、
「辛い運命の下に生まれて、この人にまで先立たれて、どのように落ちぶれて途方に暮れることになっていくのだろうか」と、思い嘆いていらっしゃるのを見ると、
「命には限りがあるものだから、惜しんだとて止めるすべはない。何とかして、この方のために残して置く魂があったらいいのだが。わが子どもの気心も分からないから」と、気掛かりで悲しいことだと、口にしたり思ったりしたが、思いどおりに行かないもので、亡くなってしまった。
暫くの間は、「あのようにご遺言なさったのだから」などと、情けのあるように振る舞っていたが、うわべはともかくも、辛いことが多かった。それもこれもみな世の道理なので、わが身一つの不幸として、嘆きながら毎日を暮らしている。ただ、この河内守だけは、昔から好色心があって、少し優しげに振る舞うのであった。
「しみじみとご遺言なさってもおり、至らぬ者ですが、お疎みにならずに何でもおっしゃってください」などと機嫌をとって近づいて来て、実にあきれた下心が見えたので、
「辛い運命の身で、このように生き残って、終いにはとんでもない事まで耳にすることよ」と、人知れず思い悟って、他人にはそれとは知らせずに、尼になってしまったのであった。
仕えている女房たちは、何とも言いようがないと、悲しみ嘆く。河内守もたいそう辛く、
「わたしをお嫌いになってのことで、まだ先の長いお年でいらっしゃろうに。この後、どのようにしてお過ごしになるおつもりなのか」などと言っているのは、つまらぬおせっかいだなどと、人々は申しているようである。
《この巻はこれで終わりなのですが、冒頭がたいへん賑々しく華やかに始まったにもかかわらず、源氏と空蝉の間には結局なにごともないまま、別れてしまったようで、その後あっけなく空蝉は出家してしまいました。
『構想と鑑賞』はそうした点について、「この巻では逢坂の関の場を除いては、ほとんど描写がなくて叙述であり、全般的にあまり肉付けがしてない」として、「未完成品であり、構想の備忘であり、単なる素材の羅列に終わっているという酷評もある」と言っていて、確かにそういう気もします。
初めの関での行列の交錯の場面などは、細かく、また美しく、どんな話になるのかと期待を持たせる本格的な書き方で、それに比べて後半は明らかに筆を急いでおり、「叙述」だけになっています。
作者としては、源氏の心はすでに紫の上と明石の君にあって、書きかけて途中から、これまでの他の女性は、後日談だけ書けばよいという気持になっていったのではないか、というようなことさえ思わせます。
あっけなく出家してしまった、と言いましたが、親子ほど年の違う夫が「年取ったためか、病気がちになって」から以後の空蝉の身辺は、現代なら社会派小説のちょっとしたテーマであり、潔いところのある空蝉がきっぱりと出家するのは理解できるとしても、そこに至るにはさまざまな思いもあったろうと、知りたい気がする事柄ではあります。
しかし、書き始めればそれだけでも一巻になったでしょうから、源氏の話が知りたい当時の読者からは、行く先の知れた受領の未亡人についての長い話は興味を保てないかも知れません。