源氏物語 ・ おもしろ読み

ドストエフスキーの全著作に匹敵する(?)日本の古典一巻を 現代語訳で読み,かつ解く,自称・労大作ブログ 一日一話。

第四章 末摘花の物語(四)

第二段 末摘花のその後

【現代語訳】

 もうこれまでだと馬鹿にしきって、それぞれ競って離散して行った上下の女房たちには、我も我もとお仕えし直そうと争って願い出て来る者もいる。

気立てなど、それはもう引っ込み思案なまでに人がよくていらっしゃるご様子ゆえに、気楽な宮仕えに慣れて、これといったところのないつまらない受領などのような家にいる女房は、今までに経験したこともないきまりの悪い思いをする者もいて、げんきんな心をあけすけにして帰って来る。

源氏の君が以前にも勝るご権勢となって、何かにつけて物事の思いやりもさらにお加えになって細々と指図して置かれるので、羽振りもよくなって、宮邸の中がだんだんと人の姿も多くなり、木や草の葉もただすさまじくいたわしく見えたのを、遣水を掃除し前栽の根元をさっぱりなどさせて、大して目をかけていただけない下家司で、格別にお仕えしたいと思う者は、このようにご寵愛になるらしいと見てとって、ご機嫌を伺いながら、追従してお仕え申し上げる。

 二年ほどこの古いお邸に寂しくお過ごしになって、東の院という所に、後はお移し申し上げたのであった。お会いになることなどはとても難しいことであるが、お邸に近い一画なので、普通に東院にお渡りになった時、お立ち寄りなどなさっては、そう軽々しくお扱い申し上げなさらない。
 あの大弐の北の方が上京して来て驚いた様子や、侍従が嬉しく思う一方で、もう少しお待ち申さなかった思慮の浅さを恥ずかしく思っていたところなどを、もう少し問わず語りもしたいが、ひどく頭が痛く厄介で、億劫に思われるので。今後また機会のある折に思い出してお話し申し上げよう、ということである。

 

《常陸宮の姫君の生活は一変します。

そして、終始思いの変わらなかった姫とは逆に、姫の困窮の折りに見切りを付けて去って行った者たちが、この僥倖を知って、姫の人好さに乗じて、掌を返すように集まって来ます。その対照が鮮やかです。

書かれてはいませんが、そういう者たちを、その言うがままにまた受け入れて、使うことにしたであろう姫の世間慣れしない人柄が思い描かれます。

日に日に装いを立派にしていくお邸の中で、「げんきんな心をあけすけにして帰って参」った多くの者たちと前から居る少人数の者たちの間には、さまざまな小さなトラブルもあって、姫の純真な心をどんなにか患わせたことでしょう。

そういう騒然たる中で、姫は、さらに「二年ほどこの古いお邸に寂しくお過ごしになっ」たのであって、決してそのまま源氏の寵を得るようになったわけではありません。

その後新しく造営された東の院の姫として入りますが、「そう軽々しくお扱い申し上げなさらない(原文・いとあなづらはしげにもてなし聞こえず)」という程度の扱いです。

現代の読者はこの姫の純真で誠実なまっすぐな心に拍手を送りたい気持ですが、源氏からしてみれば、今にして思えば軽率な好奇心から不名誉な失敗だったとしか思えない、かつて自分と関わりのあった女が、自分以外に頼る者のない状態でひたすら自分を待っていたとあって、自分の沽券に掛けて世話を思い立ったのであって、決して彼女を並以上の、つまり六条院に招くのに本当に相応しいほどの女性として認めているのでないようです。

そして実は、当時の読者の、また作者の評価も、変わり種のエピソードの域を出なかったのではないでしょうか。

しかしともあれ、かろうじて人並みの暮らしをすることになったのであって、末摘花の巻以来の懸案は、めでたしめでたしというわけです。

作者は、大弐の北の方や侍従など話も知ってはいるのですが、そういう卑しい者たちが見込み違いの失敗をすることなど珍しくもなく、関心もありませんので、頭が痛くなった態にして、筆を省きます。しかし省略すると言われたことで、読者はついついその後悔する様を想像してしまうことになるでしょう。》

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第一段 末摘花への生活援助

【現代語訳】

 賀茂祭、御禊などのころ、ご準備などにかこつけて人々が献上した物がいろいろと多くあったので、しかるべき夫人方にお心づけなさる。中でもこの宮には細々と心をおかけになって、よく分かった家臣にご命令をお下しになって、下僕たちなどを遣わして雑草を払わせ、周囲が見苦しいので板垣というものでしっかりと修繕させなさる。

このようにお探し出しになったと噂するにつけてもご自分にとって不名誉なので、お渡りになることはない。お手紙をたいそう情愛こまやかにお認めになって、二条院近くの所をご建築なさっているので、
「そこにお移し申し上げましょう。適当な童女など、お探しになって仕えさせなさい」などと、女房たちのことまでお気を配りになって、お世話申し上げなさるので、このようにみすぼらしい蓬生の宿では身の置きどころのないまで、女房たちも空を仰いでそちらの方角を向いてお礼申し上げるのであった。
 かりそめのお戯れにしても、ありふれた普通の女性には目を止めたり聞き耳を立てたりはなさらず、世間で少しでもこの人はと噂されたり、心に止まる点のある女性をお求めなさるものと、皆思っていたが、このように予想を裏切って、どのような点においても人並みでない方をひとかどの人物としてお扱いなさるのは、どのようなお心からであったのであろうか。これも前世からのお約束なのであろうよ。

 

《源氏は姫に気配りをつくして生活を援助します。もちろんそれは「変わらざる心、誠実性、実直という末摘花の性格」(『評釈』)を、源氏が、そして作者が、愛でてのことであることは間違いありません。

しかし、と言って、前節で言ったように、源氏が「人間的成長」を見せて、女性の外見ではなくその心根により多く目を向けるようになったなどと考えるのは、源氏を捕らえ違っているように思われます。『評釈』は「中でもこの宮には…」について「とりわけ末摘花が厚くもてなされている」と言いますが、これは、彼女を並のレベルにする必要から、するべきことが多かったに過ぎないと考えるべきでしょう。

もし、彼が本当にこの姫の内面に他の夫人以上の、「とりわけ」ての価値を見いだしているなら、「このようにお探し出しになったと噂するにつけてもご自分にとって不名誉なので、お渡りになることはない」というようなことはなかったはずではないでしょうか。

彼は「お渡り」という、これこそ最高の栄誉を彼女に与えることをしないのです。これが源氏の、そして作者の、彼女に対する根本的な評価と言っていいでしょう。

恐らく作者には「源氏の人間的成長」などという意識はなかったのだと思います。彼はスーパーヒーローなのであって、生まれた時からのその存在は、例えば仏のような完成品であり、彼は、彼が生きていく中で彼の身の回りに起こり降りかかってくる宿命に向き合って、ただそれに対処しているだけです。

彼には、年齢による自然的な変化(例えば若い頃の空蝉、夕顔、朧月夜に対するような激しい恋をしなくなっていく、というような変化)はあるのですが、何か一つの出来事が彼の経験となって、それによって主人公自身が劇的な内的変革を遂げていくという、いわゆる教養小説の主人公のような人物ではないのです。

源氏は、そして作者も、ここではあくまでも「どのような点においても人並みでない方を、ひとかどの人物としてお扱いなさる」という程度を越えることはありません。

「栴檀は双葉より芳し」と言いますが、彼は、その栴檀(この諺は、実は白檀を言うのだそうです)が、時々雨風に打たれながら、巨木になっていく姿をイメージするのがいいのではないでしょうか。彼の成長は、人間的と言うよりも、植物的です。

そして、あえて言えば、この物語では、その栴檀(白檀)よりも、その芳香の廻りに群がる美しい蝶やかわいい小鳥の方が、それぞれに、はるかに個性的で大きな魅力があるように思われるのです。

そして末摘花は、その中でかなり異色な小鳥であるのです。》

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