【現代語訳】
お返事には、
「 数ならぬみ島がくれに鳴く鶴をけふもいかにととふ人ぞなき
(人数に入らない私のもとで育つわが子を、今日の五十日の祝いはどうしているかと
尋ねてくれる人はいません)
いろいろと物思いに沈んでおります有様で、このように時たまのお慰めにおすがりしております私の命も心細く存じられます。仰せの通りに、姫の身の上を安心できるようにしてやっていただきたいものです」と、心を込めて申し上げている。
何度も御覧になりながら、「あわれなこと」と、長く独り言をおっしゃるのを、女君は、横目で御覧やりになって、
「浦よりをちに漕ぐ舟の(私はのけ者なのですね)」
と、そっと独り言を言って、物思いに沈んでいらっしゃるのを、
「ほんとうに、こんなにまで邪推なさるのですね。これは、ただ、これだけの愛情ですよ。土地の様子などふと想像する時々に、昔のことが忘れられないで漏らす独り言を、よくまあお聞き過しなさらないのですね」などと、お恨み申されて、上包みだけをお見せ申し上げになさる。筆跡などがとても立派で、高貴な方も引け目を感じそうなので、
「これだからであろう」と、お思いになる。
《帰りを急ぐ使いを、あえて待たせて、思いを込めて書いた明石の君の、ひたすら娘の将来を頼む返事が届きます。
源氏は、そうでなくても「飛んで行きたい気持ち」(前段)のところに、心細そうな便りで、やりきれない思いになって、つい深い溜息を漏らします。
するとそこには紫の上がいたのでした。彼女の前で読んでいたようなのです。
そこで泣いたり怒ったりではなく、「横目で」見て、決して直接的に出はなく、ちらっと嫌みを匂わせて(もっとも、貴族同士ではこれで十分直接的な言い方かとも思われますが)、そのまま目を逸らして、でしょうか、「そっと独り言を言って、物思いに沈んでいらっしゃる」というのが、当人としては決して意図的ではなく純な振る舞いなのでしょうが、何とも言えずいじらしくかわいく、コケテイッシュに感じられます。
今さらですが、引き歌というのは見事な表現法です。この元の歌は「み熊野の浦よりをちに漕ぐ舟の我をばよそに隔てつるかな」とされ、彼女はその中の一番言いたい部分をあえて言わないで、言わば関係ない部分だけを口にしたわけです。当然源氏がその歌を知っているという前提です。言いたいことを自分の言葉ではなく他人の言葉で、しかも言うべき内容の部分をはずして本題の部分は聞く者にみずから想起させる、そうすることで自分の伝えたい内容に無限の奥行きが出来る、そのようにしてしか表現できない思いがある、ということです。
源氏の「これは、ただ、これだけの愛情ですよ」というのも、彼にとっては本心なのでしょう。紫の君に対する思いとは種類も格も全く別のものだと彼は思っているのです。ですから、彼はその手紙を彼女に見せます。もっとも、上包みだけというのは少し変で、かえって中身への関心が強まりそうにも思われますが。しかしその表書きの字はみごとなもので、こういう人ならば、と信用する気持にもなったのでしょうか。文字一つで何が分かるか、とも言えますが、私たちでも手紙の表書きにいくらかの好悪を感じるわけで、問題はどれだけの目を持ち、その自分の感じたものをどれだけ信じるか、ということでしょうか。懐疑派の現代人には遠い感覚と言わざるを得ません。》