源氏物語 ・ おもしろ読み

ドストエフスキーの全著作に匹敵する(?)日本の古典一巻を 現代語訳で読み,かつ解く,自称・労大作ブログ 一日一話。

第五章 光る源氏の物語(二)

第三段 明石の君への手紙、他

【現代語訳】

 そうそう、あの明石には、送って来た者たちの帰りにことづけて、お手紙をお遣はしになる。人目に立たないようにして情愛こまやかにお書きになるようである。
「波の寄せる夜々は、どのように、
  嘆きつつあかしの浦に朝霧の立つやと人の思ひやるかな

(お嘆きになりながら暮らしている明石の浦に、嘆きの息が朝霧となって立ちこめて

いるのではないかと想像しています)」
 あの大宰帥の娘の五節は、どうにもならないことだが、人知れず好意をお寄せ申していたのもさめてしまった感じがして、誰からとも言わせずに、使いに手紙だけを届けて置いてこさせた。
「 須磨の浦に心を寄せし舟人のやがて朽たせる袖を見せばや

(須磨の浦で好意をお寄せ申した舟人が、そのまま涙で朽ちさせてしまった袖をお見

せ申しとうございます)」
「筆跡などもたいそう上手になったな」と、お見抜きになって、返事をお遣わしになる。
「 かへりてはかことやせまし寄せたりし名残に袖の干がたかりしを

(かえってこちらが愚痴を言いたいくらいです、好意を寄せてくれてそれ以来涙に濡

れて袖が乾かないものですから)」
 「いかにもかわいい」とお思いになった昔の思い出もあるので、便りを思いがけなくお思いになって、ますますいとしくお思い出しになるが、最近はそういうお忍び歩きはまったく慎んでいらっしゃるようである。
 花散里などにもただお手紙などばかりなので、心もとなく思われてかえって恨めしい様子である。

 

《「そうそう(原文・まことや)」と、まるで忘れていたように軽く言って、明石への源氏の思いやりの話を始めるのが驚きですが、次の巻への橋渡しといったところでしょうか。

私たちは、明石の君が今後どれほど重要な役割を持つかということを、よく知っていますが、初めて読む人には、こう書かれると、何か彼女が源氏のこの一定の時代を彩った人で、たくさんの女性の中のひとりに過ぎなく意識されていたようで、夕顔が夕顔の巻で終わったように、この人もこの巻でほぼ役目を終えるのかと思われそうです。

しかも、そのように明石に触れた後に、なお五節や花散里のことがちょっとずつ書かれるので、いっそうその感を強くします。

実は作者もそう思ってほしいのではないでしょう。

作者は、読者が辺地の田舎娘のことは忘れて、ひたすら、不運な流浪の時代を終えた源氏の都での華やかな復活の物語に、期待を抱いてほしいのではないでしょうか。

そういう展開の中で、改めて文字どおり「そうそう」といった感じで、明石の君の話を起こしたいと考えているように思われます。

と言って、忘れられては困るので、期待を持たせる意味で、ここでちらっと触れられているといったところでしょう。》

 

※ 私事ながら、このブログ、今日から二年目に入ります。

ちょうど区切りで十三番目の巻、明石の巻が終わり、ベースに使っている、全八巻の『集成』本で言うと、第二巻が終わりました。ということはこれから後終わるまでに、ちょうど三年かかるということになります。ちょっと感慨があります。

  どうかよろしくお願いします。

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第二段 源氏、参内

【現代語訳】

 お召しがあって、参内なさる。御前に伺候なさると、いよいよ立派になられて、人々は

「どうしてあのような辺鄙な土地で、長年お暮らしになったのだろう」と思って見申し上げる。女房などの中で、故院の御在世中にお仕えして、年老いた者たちは、悲しくて、今さらのように泣き騒いでお褒め申し上げる。
 主上も、気が引けるほどに思し召されて、御装束なども格別にお整えになってお出ましになる。お加減がここ数日すぐれない状態でおいであそばしたので、ひどくお弱りあそばしていらっしゃったが、昨日今日は、少しよろしくお感じになるのであった。お話をしみじみとなさって、夜に入った。
 十五夜の月が美しく静かなので、昔のことを一つ一つお思い出しになられて、お泣きになる。何となく心細くお思いあそばずのであろう。
「管弦の催しなどもせず、昔聞いたあなたの楽の音なども聞かないで、久しくなってしまったな」と仰せになるので、
「 わたつ海にしなえうらぶれ蛭の児の脚立たざりし年は経にけり

(海浜でうちしおれて落ちぶれて『蛭の児』の脚が立たなかったという三年を過ごし

て来ました)」
とお応え申し上げなさった。まことに気の毒なと心恥しくお思いになって、
「 宮柱めぐりあひける時しあれば別れに春のうらみ残すな

(こうしてめぐり会える時があったのだから、別れた春の恨みはもう忘れて下さい)」
 実に優美な御様子である。
 故院の御追善供養のために、法華御八講を催しなさることを、何より先にご準備させなさる。東宮にお目にかかりなさると、すっかり御成人になって、珍しく、お喜びになっているのを、感慨無量のお気持ちで御覧になる。御学問もこの上なくご上達になって、天下をお治めあそばすにも、何の心配もいらないように、ご立派にお見えあそばす。
 入道の宮にも、お心が少し落ち着いてご対面の折には、しみじみとしたお話がきっとあったであろう。

 

《兄・朱雀帝との対面ですが、帝の「気が引けるほどに思し召されて、御装束なども格別にお整えになって」という言葉が、痛々しく思われます。

「何となく心細くお思いあそばずのであろう」もその気持の延長で、次の言葉も源氏の機嫌を窺っている趣がありますが、「昔聞いたあなたの楽の音なども聞かないで」に源氏に対する敬語が入っていないのが、せめてものことで、読んでいて、ほっとするような気持ちがしないでしょうか。

源氏の歌はそういう帝への嫌みに聞こえて、後の帝の歌の、詫びの心にも関わらず、平凡な中にあるさすがと言えるおおらかさな威厳と比べると、いささか格が落ちるのではないかという気がします。

「実に優美な御様子である」は帝の様子を言っている(二人の様子、ではない)と考えてよいようで、ここばかりは作者も承知の上の差違を付けたのでしょうか。

ところで、藤壺についてはたった一言書き添えられただけです。前節の紫の上との違いは決定的で、どうやら明らかに時代は、ぐるりと一齣廻ったようです。》

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第一段 難波の御祓い

【現代語訳】

源氏の君は、難波の方に渡ってお祓いをなさって、住吉の神にも、お蔭で無事であったので、改めていろいろと願を立てたそのお礼に改めて参る旨を、お使いの者に申させなさる。急に大勢の供回りとなったので、ご自身では今回はお参りになれず、格別のご遊覧などもなくて、急いで京にお入りになった。
 二条院にお着きになって、都の人もお供の人も、夢のような心地で再会し、喜んで泣くのも縁起が悪いくらいまで大騷ぎしている。
 女君も、生きていても甲斐ないとまでお思い棄てになっていた命を、嬉しくお思いのことであろう。たいへんに美しくご成人なさって、ご苦労の間に、うるさいほどあったお髪が少し減ったのも、かえってたいそう素晴らしいのを、源氏は、「もうこうして毎日お会いできるのだ」と、お心が落ち着くにつけて、また一方では、心残りの別れをしてきた人が悲しんでいた様子が、痛々しくお思いやりになられる。やはり、いつになってもこのような方面では、お心の休まる時のないことよ。
 その女のことなどをお話し申し上げなさった。お思い出しになるご様子が一通りのお気持ちでなく見えるのを、並々のご愛着ではないと拝見なさるのであろうか、さりげなく、「身をば思はず(忘れられた私の身の上は思いませんが)」などと、ちらっと嫉妬なさるのが、しゃれていてかわいらしいとお思い申し上げなさる。

「こうして見ていてさえ見飽きることのないご様子を、どうして長い年月会わずにすごしたことか」と、信じられないまでのお気持ちがなさるにつけて、今さらながら、まことに世の中が恨めしく思われる。
 まもなく元のお位に復して、員外の権大納言におなりになる。以下の人々も、しかるべき者は皆元の官を返し賜わって世に復帰するのは、枯れていた木が春にめぐりあった有様で、たいそうめでたい感じである。

 

《都への帰途、住吉神社に、今は自分は行かれないので使いを出して、後日改めて必ずお礼のお参りをすることを約束しますが、これが後に一つの出来事を生む伏線となっています。

そしてめでたく源氏の帰京です。およそ一年五ヶ月ぶりに見る紫の上は、ひときわ美しく成長していました。源氏二十八歳、彼女は二十歳という、当時としては女性のまっ盛りの年で、苦労で髪が少し減ったことまでが源氏の心を惹きました。

「身をば思はず」は、「忘らるる身をば思はず誓ひてし人の命の惜しくもあるかな」で、『評釈』は「忘れられた私の身の上の事よりもまず、命をかけて契った人の、生命のほどが案じられることだ」と解釈して、「光る源氏の浮気をたいへん上手に咎めている」と言いますが、ちょっと分かりにくく思われます。「私のことは忘れて、その人のことばっかりをご心配なさるのですね」といった感じなのでしょうか、この場合紫の上は「忘らるる」ではなく、これまで「忘れられていた」のですから、ぴったりと当てはまるわけではないのが、こういう場合あまりぴったりしていると本当に焼きもちを焼いている形になりそうです。ここはとりあえず下の句の意味だけが生きているという形にして、少し外れている方が角が立たず、かえって「上手に咎めている」と言えそうな気もします。

源氏一党の復位復権がなって、「枯れていた木が春にめぐりあった有様」だと言います。ありふれた比喩だとは思いますが、いかにもめでたく、いかにもぴったりです。》

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