源氏物語 ・ おもしろ読み

ドストエフスキーの全著作に匹敵する(?)日本の古典一巻を 現代語訳で読み,かつ解く,自称・労大作ブログ 一日一話。

第三章 明石の君の物語(二)

第四段 明石の君の嘆き

【現代語訳】

 女君は、予想通りの結果になったので、今こそほんとうに身を海に投げ入れてしまいたい心地がする。
「老い先短い両親だけを頼りにしていて、いつになったら人並みの境遇になれる身の上とは思っていなかったが、ただとりとめもなく過ごしてきた年月の間は、何ひとつ心を悩ますこともなかったのに、世の中はこうまでひどく物思いをするものであったのだなあ」と、以前から想像していた以上に何事につけ悲しいけれど、穏やかに振る舞って憎らしげのない態度でお会い申し上げる。
 いとしいと月日がたつにつれてますますお思いになっていくが、れっきとした方で、いつかいつかと帰りを待って年月を送っていられる方が、一方ならずご心配なさっていらっしゃるだろうことが、とても気の毒なので、独り寝がちにお過ごしになる。
 絵をいろいろとお描きになって、思うことを書きつけて、返歌を聞かれるようにという趣向にお作りなった。見る人の心にしみ入るような絵の様子である。どうしてお心が通じあっているのであろうか、二条院の君も、悲しい気持ちが紛れることなくお思いになる時々は、同じように絵をたくさんお描きになって、そのままご自分の有様を、日記のようにお書きになっていた。どうなって行かれるお二方の身の上であろうか。

 

《ここで初めて原文で「娘」が「女」と呼ばれますので、これから文中でも「明石の君」と呼ぶことにします。

彼女は自分が不安に思っていたとおりに、源氏の訪れがすぐに間遠になってしまったことで、悲歎に暮れます。

紫の上ならそういう時、前節の便りのように、そっと上手に、つまり源氏がかえっていじらしいと思う程度に、恨み言を言うのでしょうが、この明石の君はその気持ちの全てを飲み込んでしまうようで、それを言葉や態度に表すことはしません。「ほんとうに身を海に投げ入れてしまいたい」ほどの思いがあっても、それを「穏やかに振る舞って憎らしげのない態度(原文・なだらかにもてなして、憎からぬさま)」と言われると、我慢して耐えているという、その悲痛さよりも、むしろその心の寛さ、奥行きの深さといったものさえ感じられます。

この後重要な役割を果たすことになる明石の君に、表舞台に登場して安定した位置を占めさせることができたと考えたからでしょうか、作者は、対照的に、源氏の心の中に占める紫の上の存在を大きく描きます。遠く離れたまま、はからずも同じく絵を描くことによって悲しみを紛らわしている二人を描いて、源氏とって第一は何と言ってもこの人だと、読者に確認させようとしているようです。

しかしその大切な人は、今は遠い都の人で、源氏は流された罪人といった立場です。「どうなって行かれるお二方の身の上であろうか」と、読者に不安を煽りながら、新しい展開を示唆します。》

にほんブログ村 本ブログ 古典文学へにほんブログ村 教育ブログ 国語科教育へにほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ

第三段 紫の君に手紙

【現代語訳】

 二条院の君が、風の便りにも漏れお聞きなさるようなことは、「冗談にもせよ、隠しだてをしたのだとお疎み申されるのは、申し訳なくもあわせる顔がない」とお思いになるのも、よくよくのご愛情の深さであることだ。

こういう方面のことは、さすがに真剣にお恨みになったことが幾度もあったが、どうしてつまらない忍び歩きにつけても、そのようなつらい思いをおさせ申したのだろうか、などと、昔を今に取り戻したく、こちらの娘の様子を御覧になるにつけても、恋しく思う気持ちが慰めようがないので、いつもよりお手紙を心こめてお書きになって、
「ところで、そうそう、自分ながら心にもない出来心を起こしてお恨まれ申した時々のことを思い出すのさえ胸が痛くなりますのに、またしても、変なつまらない夢を見たのです。このようにお話しする問わず語りに、隠しだてしない胸の中だけはご理解ください。『誓ひしことも』」などと書いて、
「何事につけても、
  しほしほとまづぞ泣かるるかりそめのみるめは海士のすさびなれども

(あなたのことが思い出されて、さめざめと泣けてしまいます、かりそめの恋は海人

の私の遊び事ですけれども)」
とあるお返事は、何のこだわりもなくかわいらしげに書いて、終わりに、
「隠しきれずに打ち明けて下さった夢のお話につけても、思い当たることが多いのですが、

 うらなくも思ひけるかな契りしを松より波は越えじものぞと

(何の疑いもなく信じておりました、契ったことの心変わりはないものと)」
 鷹揚な書きぶりながら、お恨みをこめてほのめかしていらっしゃるのを、とてもしみじみと思われ、下に置くこともできず御覧になって、その後は、久しい間忍びのお通いもなさらない。

 

《源氏は、この娘に心惹かれれば惹かれるほど、都の紫の上を恋しく思います。この女はこうして私に逢えるけれども、あの人は頼る者もいないところで、ただ一人私を信じて心細いままに待っていることだろうと思うと、堪らない気持がします。

そんな時に、もしこの娘とのことを私が話す前に彼女が知ったら、どれほど辛い思いをすることだろうか。それは彼女に対して「申し訳なくもあわせる顔がない(原文・心苦しうはずかしう)」と彼は思います。

そして、以前こういう浮気のことで彼女に辛い思いをさせたことが辛く思い出されて、「昔を今に取り戻したく(原文・とりかえさまほしう)」思われ、この娘に会う毎に、それもこの娘を愛しく思うだけに、紫の上をひたすら恋しく思うのでした。

『評釈』が「人の心の自然な移り行きをよく写しとっている」と言っていますが、「自然」とはにわかには思われない気がします。作者は、当時の女性の立場から、こういう三角関係が起こるのはやむを得ないとして、その場合、せめて男にはこういうふうに思ってほしいという、そういう意味での男性の理想像を描いたのではないでしょうか。

確かなのは、源氏の意識の中であくまでも紫の上がいて、その上でこの娘がいるということです。逆に言えば、この娘は、そうでありながらなお、抑えがたく愛しく思うほどの人でもあるのですが。

ともあれ源氏は紫の上にこの娘とのことを知らせる手紙を書きます。「ところで、そうそう(原文・まことや)」は、「思い出したように付け加える口調」(『集成』)で、なんとか軽い話題として受け取ってほしい、少なくとも自分にとってはそうなのだ、と匂わせています。

返事は、「何のこだわりもなくかわいらしげに書いて」ありました。彼女はまだ幼い頃に源氏から、男が複数の女性のところに通うのは、相手のことを思ってのことで、やむを得ないことなのだと教えられたことがありました(紅葉賀の巻第三章第四段2節)が、それをそのまま信じて、あたかも仕事に行く夫を見送るように、源氏を見ながら育ってきたかのようです。

しかしそれでもさすがに、や手紙の端にはやはり「お恨みをこめてほのめかしていらっしゃる」ので、源氏は心苦しく、「その後は、久しい間忍びのお通いもなさらない」のでした。いとおしく思う人から、咎められるのではなくて「信じすぎた私がばかでした」と言われると、浮気の気持もしぼんでしまう、『評釈』の言うとおり、「まことに人の気持ちは奇妙である」ようです。》

にほんブログ村 本ブログ 古典文学へにほんブログ村 教育ブログ 国語科教育へにほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ

第二段 明石の君を初めて訪ねる~その3

【現代語訳】3
 人柄はとても上品で、すらりとして、気後れするような感じがする。こんなあり得ないような契りをお思いになるにつけても、ひとしおいとしい思いが増すのである。情愛が、逢ってますます募るのであろう、いつもは厭わしい秋の夜長も、すぐに明けてしまったような気がするので、「人に知られまい」とお思いになると、気がせかれて、心をこめたお言葉を残して、お立ちになった。
 後朝のお手紙が、今日はこっそりとある。つまらない良心の呵責であるよ。入道の方も、このようなことを何とか世間に知られまいと隠して、御使者を仰々しくもてなさないので、それを残念なことに思った。
 こうして後は、こっそりと時々お通いになる。距離も少し離れているので、「自然と口さがない海人の子どもがいるかも知れない」とおためらいになる途絶えを、「やはり、思っていたとおりだわ」と嘆いているので、「本当に、どうなることやら」と、入道も極楽往生の願いも忘れて、ただ君のお通いを待つことばかりである。今さら心を乱すのも、とても気の毒なことである。

 

《このところ、諸本とも前節から段落なしで続けていますが、ここは一区切りほしいところと思います。

一息あっての源氏の思いの最初が「逢ってますます募る(原文・近まさりする)」であるのですが、いい言葉です。『評釈』は「少し意地悪な批評である」と言いますが、「奥ゆかしい(もっとよくしりたい)」などという言葉と対になる、褒め言葉としてはかなり上位の言葉と言えるのではないでしょうか。

源氏は、良清からの噂や入道のふれこみは聞いていたものの、所詮田舎娘だと思って、都の女性たちを思えば、もともとそれほど期待していたわけではありません。

ところが近づいてみると、その「物腰のひそやかな感じ」は御息所に匹敵するほどであり、それを期待して実際に会ってみても、なお「人柄はとても上品で、すらりとして、気後れするような感じ」であり、そして「厭わしい秋の夜長も、すぐに明けてしまったような気がする」と、最上級と思われる言葉が続きます。

そういえば末摘花の時に「よく見れば良いところも現れて来はしまいか(原文・見まさりするやうもありかし)」と期待した時がありました(末摘花の巻第一章第七段)。あの時は大変な期待はずれに終わりましたが、こちらは逆に思いがけない素晴らしさの発見があったのでした。

後朝の手紙が「今日はこっそりと」届きます。これまでの文通はそうではなかったのですが、こういう間柄になっては、人々に知られ、ひょっとして都に、紫の上に知れては困るという気遣いです。作者は「つまらない良心の呵責」と、もうすでに娘の側に立って批判します。

しかし源氏は、目立っては困るので、そう毎日通うわけにも行かず、娘は早くも「やはり、思っていたとおりだわ」と嘆くことになり、入道も気が気ではありません。》

にほんブログ村 本ブログ 古典文学へにほんブログ村 教育ブログ 国語科教育へにほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ

第二段 明石の君を初めて訪ねる~その2

【現代語訳】2

 少しためらいがちに、何かと言葉をおかけになるが、

「こんなにまでお側近くではお目に掛かるまい」と深く決心していたので、何となく悲しくて、気を許そうとしない態度を、

「ずいぶんと貴婦人ぶっていることだ。容易に近づきがたい高貴な身分の女でさえ、これほど近づき言葉をかけてしまえば、気強く拒むことはないのが今までであったが、私がこのように落ちぶれているので、見くびっているのだろうか」としゃくで、いろいろとお迷いになっていようだ。

「思い遣りなく強引に振る舞うのも、この場合に相応しくない。根比べに負けたりするのは、体裁の悪いことだ」などと、心乱れて恨みごとをおっしゃる様子は、ほんとうにものの情趣を理解する人に見せたいものである。
 近くの几帳の紐に触れて、箏の琴が音をたてたのも、取り片付けてなく、くつろいだ普段のまま琴を弄んでいた様子が想像されて、興趣あるので、
「噂に聞いていた琴までも聴かせてくれないのですか」などと、いろいろとおっしゃる。
「 むつごとを語りあはせむ人もがな憂き世の夢もなかば覚むやと

(睦言を語り合える相手が欲しいものです、この辛い世の夢がいくらかでも覚めはし

ないかと)」
「 明けぬ夜にやがてまどへる心にはいづれを夢とわきて語らむ

(闇の夜にそのまま迷っております私は、どちらを夢と区別してお話し相手になればいいでしょうか)」

物腰のひそやかな感じは、伊勢の御息所にとてもよく似ている。何も知らずにくつろいでいたところに、こんな意外なおいでで、たいそう困って、近くの部屋の中に入っていて、どのように戸締りしたものか、固いのだが、無理して開けようとはなさらない様子である。けれども、いつまでもそうしてばかりいられようか。

 

《招くように入道が少し開けていた木戸から入った源氏は、娘の部屋の外からそっと声を掛けます。すぐに源氏と気づいた娘は、あまりに思いがけないことに「何となく悲しくて(原文・もの嘆かしうて)」、いっそう心を閉ざしてしまいました。

それは、どうせ自分など、という例のコンプレックスからなのですが、実は源氏の方も、娘のそういう頑なな態度を「私がこのように落ちぶれているので、見くびっているのだろうか」とコンプレックスから勘違いをして、こちらも「千々に心乱れてお恨みになる」のでした。娘の方は緊張感から身を縮めている感じですが、源氏の方はそれとの対照でちょっと滑稽な場面です。

しかし、心を乱しながら、逢ってくれないことを恨む調子で口説く源氏の様子は、草子口で「ほんとうに物の情趣を理解する人に見せたいものだ(げにもの思ひ知らむ人にみせばや)」というくらいに見事なもので、娘の緊張を解きほぐさずにはおきません。

この言葉は、今夜の入道の誘いの「あたら夜の」の歌にあった「心しれらむ人に見せばや」を受けていて、娘もそうかも知れないが、あの恋の手練れであるはずの源氏が、今この口説きの場面で困っている姿も、入道の言葉ではないが、「心ある人に見せたい」ほどで、一興でしたと、言っているというわけです。

この時娘が奧の部屋に入ってしまったのでしょう、「近くの几帳の紐に触れて、箏の琴が音をたて」ました。それによって今まで娘はそこにいて琴でくつろいでいたことが分かって、彼女のプライベートの中に入り込んだ感じです。

「物腰のひそやかな感じは、伊勢の御息所にとてもよく似ている」は、奧へ移る娘の気配を言っているのでしょうか、「伊勢の御息所」と言えば六条御息所で、その「ものごとをあまりにも深くお思い詰めなさるご性格」(夕顔の巻第三章)だけを除けば全てに最高のたしなみを持った人として扱われてきた人で、この一瞬に、この田舎娘の希有な素晴らしさが感じられたのでした。

奥に入った娘は、襖を固く閉ざして、なおも容易に心を開く様子はありません。

しかし、源氏は先ほどの気配にいっそうこの娘に心惹かれており、彼女ももともと源氏に心惹かれていたことは、間違いないことで、ただそれを自分で禁じていたに過ぎません。

二人ともが、「いつまでもそうしてばかりいられようか」という次第になっていったのは、ごく自然なことであったのです。》

にほんブログ村 本ブログ 古典文学へにほんブログ村 教育ブログ 国語科教育へにほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ

第二段 明石の君を初めて訪ねる~その1

 

【現代語訳】1

 入道はこっそりと吉日を調べて、母君があれこれと心配するのにを聞き入れず、弟子たちにさえ知らせず、自分の一存で手配して、まばゆいほどに用意を整えて、十三日の月が明るくさし出た時分に、ただ「あたら夜の(ぜひお目にかけたい)」と申し上げた。
 君は、「風流ぶっているものよ」とお思いになるが、お直衣をお召しになり身なりを整えて、夜が更けるのを待ってお出かけになる。入道がお車をまたとなく立派に整えたが、仰々しいと考えて、お馬でお出かけになる。惟光などばかりをお供になさる。少し遠く奥まった所なのだった。道すがら、四方の浦々を見渡されて、「思ふどち(思い合っている人同士)」で眺めたいような入江の月影を見るにつけても、まずは恋しい人の御ことをお思い出し申しあげなさるので、このまま馬で通り過ぎて、上京してしまいたくお思いになる。
「 秋の夜のつきげの駒よわが恋ふる雲居を翔れ時の間も見む

(秋の夜の月毛の駒よ、わが恋する都へ天翔っておくれ、束の間でもあの人に会いたいので」

とつい独り口をついて出る。
 岡辺の家の造りは、木が深く繁って感心する所がたくさんあって、立派な住まいである。海辺の住まいは堂々として興趣に富み、こちらの家はひっそりとした住まいで、ここで暮らしたら、風雅の全てを楽しむことができようと、自然と娘の人柄が想像されて、しみじみとした思いにかられる。三昧堂が近くにあって、鐘の音が松風に響き合ってもの悲しく、巌に生えている松の根の様も、情趣ある様子である。いくつもの植え込みに虫が声いっぱいに鳴いている。あちらこちらの様子を御覧になる。娘を住ませている一画は、格別に美しくしてあって、月の光を入れた真木の戸口は、ほんの気持ちばかり開けてある。

《源氏も娘も、自分からは会おうとする様子がなく、入道は源氏にお出かけ願うしかないと考えたようです。やはりこういう話は、男性が進めるなら男性の方が話がしやすかったということなのでしょうか。

彼は、可能な限りの準備をしつくしておいて、源氏に「ただ『あたら夜の』と申し上げ」ました。「あたら夜の月と花とを同じくは心しれらむ人に見せばや」の歌の初句だけを伝えたというのです。「あなたが『心ある方』なら見てやって下さい」という心でしょう。

『評釈』が「君の風雅の心に訴えたのである。これでは光る源氏のほうも、自分から出かけるのは困る、…とは言えない。断ることはできない」と言います。

なるほど、直接に、おいで下さいというのなら、いやとも言えましょうが、こう試されるように言われては、「風流ぶっているな」と苦笑いしながら、切ない真意は分かっていることでもあり、まあそこまで趣向を凝らすなら仕方がない、と折れて出かけようかという気持なるのも理解できします。あくまで「仕方がない」であるところが大切です。

したがってその道中は、公的な意味にもなる車ではなくて、馬で、まるで物見遊山の風情で、新しい女性の所に行こうというのに、都の妻を恋しく思い出したりしています。

『評釈』は「読者は、光る源氏とともに明石の娘を認めねばならない。その前に、紫の上に対する光る源氏の愛情を確認する」のだと言います。

岡辺に家は申し分ないしつらえで、「月の光を入れた真木の戸口は、ほんの気持ちばかり開けてある」のでした。さりげなく誘っている趣で、あたかも木戸が生き物の身振りをして招いているような印象が残ります。『評釈』によればこの一節を「定家は源氏第一の詞としている」のだそうで、中にいた女性の素晴らしさとともに、心に残る情景です。》

にほんブログ村 本ブログ 古典文学へにほんブログ村 教育ブログ 国語科教育へにほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ

プロフィール

ikaru_uta

カテゴリー
QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ