【現代語訳】
女君は、予想通りの結果になったので、今こそほんとうに身を海に投げ入れてしまいたい心地がする。
「老い先短い両親だけを頼りにしていて、いつになったら人並みの境遇になれる身の上とは思っていなかったが、ただとりとめもなく過ごしてきた年月の間は、何ひとつ心を悩ますこともなかったのに、世の中はこうまでひどく物思いをするものであったのだなあ」と、以前から想像していた以上に何事につけ悲しいけれど、穏やかに振る舞って憎らしげのない態度でお会い申し上げる。
いとしいと月日がたつにつれてますますお思いになっていくが、れっきとした方で、いつかいつかと帰りを待って年月を送っていられる方が、一方ならずご心配なさっていらっしゃるだろうことが、とても気の毒なので、独り寝がちにお過ごしになる。
絵をいろいろとお描きになって、思うことを書きつけて、返歌を聞かれるようにという趣向にお作りなった。見る人の心にしみ入るような絵の様子である。どうしてお心が通じあっているのであろうか、二条院の君も、悲しい気持ちが紛れることなくお思いになる時々は、同じように絵をたくさんお描きになって、そのままご自分の有様を、日記のようにお書きになっていた。どうなって行かれるお二方の身の上であろうか。
《ここで初めて原文で「娘」が「女」と呼ばれますので、これから文中でも「明石の君」と呼ぶことにします。
彼女は自分が不安に思っていたとおりに、源氏の訪れがすぐに間遠になってしまったことで、悲歎に暮れます。
紫の上ならそういう時、前節の便りのように、そっと上手に、つまり源氏がかえっていじらしいと思う程度に、恨み言を言うのでしょうが、この明石の君はその気持ちの全てを飲み込んでしまうようで、それを言葉や態度に表すことはしません。「ほんとうに身を海に投げ入れてしまいたい」ほどの思いがあっても、それを「穏やかに振る舞って憎らしげのない態度(原文・なだらかにもてなして、憎からぬさま)」と言われると、我慢して耐えているという、その悲痛さよりも、むしろその心の寛さ、奥行きの深さといったものさえ感じられます。
この後重要な役割を果たすことになる明石の君に、表舞台に登場して安定した位置を占めさせることができたと考えたからでしょうか、作者は、対照的に、源氏の心の中に占める紫の上の存在を大きく描きます。遠く離れたまま、はからずも同じく絵を描くことによって悲しみを紛らわしている二人を描いて、源氏とって第一は何と言ってもこの人だと、読者に確認させようとしているようです。
しかしその大切な人は、今は遠い都の人で、源氏は流された罪人といった立場です。「どうなって行かれるお二方の身の上であろうか」と、読者に不安を煽りながら、新しい展開を示唆します。》