【現代語訳】1
ご出立になる朝は、まだ夜の深いうちにお出になって、京からのお迎えの人々も騒がしいので、心も上の空であるが、人のいない時を見はからって、
「 うち捨てて立つも悲しき浦波のなごりいかにと思ひやるかな
(あなたを置いて明石の浦を旅立つわたしも悲しい気がしますが、後に残ったあなた
がどのような気持ちで過ごすだろうかとお察しします)」
お返事は、
「 年経つる苫屋も荒れて憂き波の帰るかたにや身をたぐへまし
(長年住みなれたこの苫屋も、あなたが立ち去られた後は荒れはてて、つらい思いを
しましょうから、いっそ打ち返す波に身を投げてしまおうかしら)」
と、気持ちのままの歌を御覧になると、堪えていらっしゃったが、ほろほろと涙がこぼれてしまった。事情を知らない人々は、
「やはりこのようなお住まいであるが、一年ほども住み馴れなさったので、いよいよ立ち去るとなると、悲しくお思いになるのももっともなことだ」などと、拝見する。
良清などは、「並々ならずお思いでいらっしゃるようだ」といまいましく思っている。
嬉しいにつけても、「ほんとうに今日限りで、この浦を去ることよ」などと名残を惜しみ合って、口々に涙ぐんで挨拶をし合っているようだ。けれども、いちいちお話する必要もないだろうと思うので。
《『評釈』が「お立ち際になって二人の歌の贈答は、最初のころとは変わってきたのに注意しなければならない」として、初めは「相手の言葉を切りかえしていた」のに対して今は「相手の情趣をうけとめ、自らの情趣を歌い上げるものに変化する」と言っています。
確かにそうですが、明石の君の歌は前節の「なほざりに」の歌がそうであったように、ここでも「や」の疑問が重要で、「歌い上げる」というより問いかけ訴えかけるものになっています(『評釈』は「身を任せましょう」と平叙文で訳していますが)。
「なごりいかにと思ひやるかな」などとおっしゃるけれど、残される私のこの悲しさ、寂しさ、そしてこうなることが分かっていたから必死で避けていたのにその心をつかんでしまわれた悔しさ、恨み、そしてそれを受け入れた自分への憤りなどなどの混じったこの言いようのない思いなどお分かりなるはずもない、「いっそ打ち返す波に身を投げてしまおうかしら」、それでもいいですか。
だからここでも、その歌をことさらに「気持ちのままの歌(原文・うち思ひけるままなる)」と断っています。本来なら問いかけるべきではないこと言っているからなのでしょう。
そしてそれはまた、彼女にとって今しかできない、精一杯の甘えでもあるのです。受け取って源氏は涙を堪えきれません。
と、ここまで感情を高ぶらせておいて、作者は突然突き放し、その涙を淡い感傷として見ている周囲の人々を描くことで、二人をいっそう際だたせ、浮き上がらせます。
さらにそれを「いまいましく思っている」良清を登場させ、いささか男臭く世知長けた色好みの男の風貌が描かれて、源氏と明石の二人との対照が読者を現実に引き戻します。》