【現代語訳】
そうそう、あの明石には、送って来た者たちの帰りにことづけて、お手紙をお遣はしになる。人目に立たないようにして情愛こまやかにお書きになるようである。
「波の寄せる夜々は、どのように、
嘆きつつあかしの浦に朝霧の立つやと人の思ひやるかな
(お嘆きになりながら暮らしている明石の浦に、嘆きの息が朝霧となって立ちこめて
いるのではないかと想像しています)」
あの大宰帥の娘の五節は、どうにもならないことだが、人知れず好意をお寄せ申していたのもさめてしまった感じがして、誰からとも言わせずに、使いに手紙だけを届けて置いてこさせた。
「 須磨の浦に心を寄せし舟人のやがて朽たせる袖を見せばや
(須磨の浦で好意をお寄せ申した舟人が、そのまま涙で朽ちさせてしまった袖をお見
せ申しとうございます)」
「筆跡などもたいそう上手になったな」と、お見抜きになって、返事をお遣わしになる。
「 かへりてはかことやせまし寄せたりし名残に袖の干がたかりしを
(かえってこちらが愚痴を言いたいくらいです、好意を寄せてくれてそれ以来涙に濡
れて袖が乾かないものですから)」
「いかにもかわいい」とお思いになった昔の思い出もあるので、便りを思いがけなくお思いになって、ますますいとしくお思い出しになるが、最近はそういうお忍び歩きはまったく慎んでいらっしゃるようである。
花散里などにもただお手紙などばかりなので、心もとなく思われてかえって恨めしい様子である。
《「そうそう(原文・まことや)」と、まるで忘れていたように軽く言って、明石への源氏の思いやりの話を始めるのが驚きですが、次の巻への橋渡しといったところでしょうか。
私たちは、明石の君が今後どれほど重要な役割を持つかということを、よく知っていますが、初めて読む人には、こう書かれると、何か彼女が源氏のこの一定の時代を彩った人で、たくさんの女性の中のひとりに過ぎなく意識されていたようで、夕顔が夕顔の巻で終わったように、この人もこの巻でほぼ役目を終えるのかと思われそうです。
しかも、そのように明石に触れた後に、なお五節や花散里のことがちょっとずつ書かれるので、いっそうその感を強くします。
実は作者もそう思ってほしいのではないでしょう。
作者は、読者が辺地の田舎娘のことは忘れて、ひたすら、不運な流浪の時代を終えた源氏の都での華やかな復活の物語に、期待を抱いてほしいのではないでしょうか。
そういう展開の中で、改めて文字どおり「そうそう」といった感じで、明石の君の話を起こしたいと考えているように思われます。
と言って、忘れられては困るので、期待を持たせる意味で、ここでちらっと触れられているといったところでしょう。》
※ 私事ながら、このブログ、今日から二年目に入ります。
ちょうど区切りで十三番目の巻、明石の巻が終わり、ベースに使っている、全八巻の『集成』本で言うと、第二巻が終わりました。ということはこれから後終わるまでに、ちょうど三年かかるということになります。ちょっと感慨があります。