源氏物語 ・ おもしろ読み

ドストエフスキーの全著作に匹敵する(?)日本の古典一巻を 現代語訳で読み,かつ解く,自称・労大作ブログ 一日一話。

第一章 逝く春と離別の物語

第九段 離京の当日~その2

【現代語訳】2

 道中、面影となってありありと浮かんで離れず、胸もいっぱいのまま、お船にお乗りになった。日の長いころなので、追い風までも加わってまだ午後四時のころに、あの須磨の浦にお着きになった。かりそめのお出ましでもこうした旅路をご経験のないお心には、心細さも物珍しさも並大抵ではない。大江殿と言った所はひどく荒れて、松の木だけが跡をとどめている。
「 唐国に名を残しける人よりもゆくへ知られぬ家居をやせむ

(唐国で名を残した人以上に行方も知らない侘住まいをするのだろうか)」
 渚に打ち寄せる波の寄せては返すのを御覧になって、「うらやましくも(返っていく波が羨ましいことだ)」と口ずさみなさっているご様子は、誰でも知っている古歌であるが、耳新しく聞かれて、ただただ悲しいことだとお供の人々は思っている。

振り返って御覧になると、来た方角の山は霞が遠くにかかって、まことに「三千里の外」という心地がすると、「櫂の滴(涙)」も堪えきれない。
「 故里を峰の霞は隔つれどながむる空はおなじ雲居か

(住みなれた都を峰の霞は遠く隔てるが、悲しい気持ちで眺めている空は都の人が見

るのと同じ空なのだろうか)」
 何ひとつ胸に迫らぬものはないのだった。

 

《月の光に照らされた紫の上の顔や姿をまぶたに思い浮かべながらの道中で、港に行き着けば、生まれて初めての遠い船出ですが、ここでも、離京の時と同じようにまず須磨到着を語っておいてから、その前の道中の話です。

『評釈』は、淀川を舟で下って「京から難波までが、当時は一日の行程」と言い、翌日の夕方前に着いたものと言っています。

そして、作者も当時の読者も須磨への道中などしたことはあるまいとして、「作者は歌と歌枕で道行きを書く。これは読者に理解され、共感される。ともに住む芸術の世界であるから。」と、言います。

「唐国に名を残しける人」は屈原ではないか、とされ、心ならずも都を追われて放浪する姿に自分をなぞらえます。

「うらやましくも」は、業平の歌で、『伊勢物語』七段、「京にありわびて、東にいきける」ときに詠まれたもの。まさしく源氏そのものです。

「三千里の外」は白楽天。「三千里の外遠行の人、…冷枕単床一病身」と続く詩です。

そして「櫂の滴」は、ふたたび業平です。

こうした不遇の人を重ね合わることによって、作者も読者も見たこともない須磨という最果ての地にある源氏の不幸な姿を描き挙げているわけです。》


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第九段 離京の当日~その1

【現代語訳】1

 その日は、女君に静かにお話を申し上げてお過ごしになって、旅立ちの例で、夜明け前にお立ちになる。狩衣のご衣装など、旅のご装束は、たいそう質素なふうになさって、
「月も出てしまったのだな。やはりせめてもう少し端に出て見送ってください。須磨では、どんなにかお話申し上げたいことがたくさん積もっていたことだと思うことでしょう。一日二日、まれに離れている時でさえ、不思議と気が晴れない思いがするものを」とおっしゃって、御簾を巻き上げて、端近にお誘い申し上げなさると、女君は泣き沈んでいらっしゃったが、気持ちを抑えてにじり出ていらっしゃって、月の光にたいそう美しくお座りになった。

わが身がこのまま無常の世を離れてしまうようなことがあったなら、どのような状態で世を過ごして行かれるのであろうかと、不安で悲しく思われるが、深いお悲しみの上に、ますます悲しませるようなので、
「 生ける世の別れを知らで契りつつ命を人に限りけるかな

(生きていくこの世に別れというものがあるとは知らずに、命のある限りは一緒にと

信じていたことよ)
 頼りない約束だったことだ」などと、わざとあっさりと申し上げなさったので、
「 惜しからぬ命にかへて目の前の別れをしばしととめてしがな

(かへて惜しくもないわたしの命に代えて、今のこの別れを少しの間でも引きとどめ

て置きたいものです)」

なるほど、そのようにもお思いだろうと、たいそう見捨てて行きにくいが、夜がすっかり明けてしまっては人目があるので、急いでお立ちになった。

 

《とうとう本当の出発の日となりました。三月二十日すぎのことと、この巻のはじめにありました。最後は何と言っても紫の上の登場です。

「御簾を巻き上げて、端近にお誘い申し上げなさる」について、『評釈』が「源氏自身、御簾を巻き上げて、ここへ、というしぐさ。月の光で女君を見、その顔を姿を脳裡に焼きつけようとするのだ。ややしばし涙をおさえていた女君が、簀子近くに『ゐざり』出る。彼女も、姿を顔を見ようという源氏に拒む気はないし、むしろ見てほしいし、また、自分もこの機会に源氏を見たいのである。」と、語ります。

こうした場合によくある恋人の別れの場面のように思われますが、当時女性が男性に直接顔を見せるのは、特別な場合に限られていたことを思えば、この時の二人の並々ならぬ思いが表れていると思われます。

現代に置き換えて考えれば、例えば、小林正樹監督の映画『人間の条件』で新婚の主人公・梶が絶望的な戦争に応召して行く前夜、月の光の中で新妻の美千子に生まれたままの姿を見せてほしいと言って向き合う場面がありましたが、それと同じ情景なのだろうと思います。

「わが身がこのまま無常の世を離れてしまうようなことがあったなら(原文・わが身かくてはかなき世を別れなば)」の解釈について、死別、離京など諸説あるようですが、「別れなば」と仮定表現になっていること、次の源氏の歌が死を意識している内容であることから考えれば、死別と解するのがいいように思われます。源氏にとってもそうですが、紫の上にとってはいっそう、生涯の区切りのように思われる別れであるでしょう。

源氏の歌はまことに「あっさりと」した、ありふれた発想だと思いますが、女君の歌は、この人のこれまでのイメージにはない、激しい思いが直接的に表現されています。

冒頭、「その日は、女君に静かにお話を申し上げてお過ごしになって、旅立ちの例で、夜明け前にお立ちになる」とありますが、これで行くと、翌朝の「夜明け前」までが「その日」であったようです。現代の一日は時刻で区切ると思いますが、この時代は生活実感からの区切りだったわけです。現代、夜中の一時、二時は今日か明日か表現しにくいときがあることを思うと、その方が合理的かも知れないと思ったりします。》

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第八段 東宮に離京の挨拶~その2

【現代語訳】2

 世間一般の人々も、誰が並大抵に思い申し上げたりなどしようか。七歳におなりになった時から今まで、帝の御前に昼夜となくご伺候なさって、ご奏上なさることでお聞き届けられぬことはなかったので、このお世話にあずからない者はなく、ご恩徳をありがたく思わない者がいるはずもない。高貴な上達部、弁官などの中にも多かった。それより下々の者では数も分からないが、ご恩を知らないのではないけれども、現実問題としては、めざとい世の中を憚って、寄って参る者はいない。

世を挙げて惜しみ申し、内心では朝廷を批判し、お恨み申し上げているのだが、「身を捨ててお見舞いに参上しても、何のかいがあろうか」と思うのであろうか。

「このような時には我ながら見苦しい気がするほど、恨めしく思われる人々が多く、世の中というものはおもしろくないものだな」とばかり、万事につけてお思いになる。

 

《女性たちとの別れの話が続きましたが、最後に世評、特に男性社会の様子が語られます。

源氏は、彼が桐壺帝の庇護の下にあって力を持っていたころ、多くは任官、昇任などについてでしょう、ずいぶん世話をした人がいたようです。

しかしその者達も、今は、右大臣方の思惑を恐れて、誰も訪ねてきません。「ご恩を知らないのではない」のですが、それほどに右大臣方の締め付けが目こぼしなく徹底的だということのようです。

「世を挙げて惜しみ申し、内心では朝廷を批判し、お恨み申し上げ」ている、というのですから、この人たちはもうすっかり悪者になってしまいました。

登場人物達を善玉と悪玉に分けてしまうあたり、いわゆる「昔物語」、まだまだお伽噺的なところを残しているというわけです。

そもそもを言えば、右大臣方の戴く朱雀帝の方が、あらゆる意味で正統なのであって、源氏が先帝に寵愛を過分に受けていて、立場以上の権威を纏っていたと言えるのです。そして、その源氏が東宮の後見として大きく存在することは、朱雀帝の権威を損なうか、少なくとも脅かすことになるのです。

つまり、実際は右大臣方が源氏方を牽制するのには十分な言い分があると言っていいのですから、必ずしも全くの悪玉というわけではありません。

しかも、今回の都落ちの直接の原因は、源氏の不行状にあるのですから、言わば「身から出た錆」という一面が小さくないのであって、彼が「世の中というものはおもしろくないものだな」と思うのは、客観的に見れば、ずいぶん甘いと言わざるを得ません。

しかしこの物語は、その二勢力の確執の物語ではなく、そういう時代の流れの中に生きた源氏とその周辺の人々の物語として描かれているのですから、それはそれとして認めて読み進めることになります。

なにしろ、これから始まる源氏の須磨流謫の物語は、いわゆる貴種流離譚と呼んで括られる、典型的なお伽噺の一節であるのですから。》


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第八段 東宮に離京の挨拶~その1

【現代語訳】1

 すっかり明けたころにお帰りになって、東宮にもお便りを差し上げなさる。藤壺宮が王命婦をお身代わりとして伺候させていらっしゃったので、そのお部屋に宛てて、
「今日、都を離れます。今一度参上せぬままになってしまいましたのが、数ある嘆きの中でも最も悲しく存じられます。すべてご推察いただき、啓上してください。
  いつかまた春の都の花を見む時うしなへる山賤にして

(いつ再び春の都の花盛りを見るでしょうか、時流に見捨てられた山賤の身で)」
 桜の花が散ってまばらになった枝に結び付けていらっしゃる。

しかじかですと御覧に入れると、幼心にも真剣な御様子でいらっしゃる。
「お返事はどのように申し上げましょうか」と啓上すると、
「少しの間でさえ見ないと恋しく思われるのに、まして遠くに行ってしまったらどんなにか、と言いなさい」と仰せになる。「あっけないお返事だこと」と、いじらしく拝する。

命婦は、どうにもならない恋にお心のたけを尽くされた昔のことや折々のご様子が、次々に思い出されるにつけても、何の苦労もなしに自分も相手もお過ごしになれたはずの世の中を、ご自分から求めてお苦しみになったのを、悔しく、自分一人の責任のように思われる。お返事は、
「とても言葉に尽くして申し上げられません。御前には啓上致しました。心細そうにお思いでいらっしゃる御様子もおいたわしうございます」と、とりとめないのは、心が乱れているからであろう。
「 咲きてとく散るは憂けれどゆく春は花の都を立ち帰り見よ

(咲くとすぐに散ってしまう桜の花は悲しいけれど、過ぎゆく春はまた帰ってきます、

またお帰りになって東宮の御代を御覧下さい)
 季節がめぐり来れば」
と申し上げて、その後も悲しいお話をしあって、御所中、声を抑えて泣きあっていた。
 一目でも拝し上げた者は、このようにご悲嘆のご様子を嘆き惜しまない人はいない。まして、平素お仕えしてきた者は、ご存知になるはずもない下女、御厠人まで、世にまれなほどの手厚いご庇護であったのを、「少しの間にせよ、拝さぬ月日を過すことになるのか」と、思い嘆くのであった。

《「王命婦」というのは藤壺の侍女で、源氏を藤壺に導いた人です。主人の入道に殉じて出家しました(賢木の巻第五章第三段)。「それが東宮に付いていると言うのはおかしい。作者の誤りである。」と『評釈』は言います。確かに藤壺にしてみればこの人のせいで煩悶を抱えることになったわけですし、東宮はそれによって生まれた人ですから、その側のこの人を付けるというのは、少し無理のある話のようにも思われます。しかし逆に、例えば東宮の周辺でことが露見しそうな噂がくすぶった折などには、事情を知っている者の方がきちんと対処してくれるとも言えます。

差しあたり、ここで源氏が東宮に挨拶するのには、彼女がここにいるのは、その仲立ちとして適切な人と思われ、いい場面になりますので、私たちは承認して読むことにします。

源氏は東宮への離京の挨拶の手紙を、直接ではなく、この命婦宛に送って言伝を頼みます。

それによって、源氏の東宮への憚りが垣間見え、命婦と東宮の会話が描かれることで東宮の様子も描かれ、また命婦の過去への思いが吐露される、というように、それぞれの心の内が語られることになります。

東宮からのお言伝に命婦は「あっけないお返事だこと(原文・ものはかなの御返りや)」と思います。東宮のお言葉の原文は「しばし見ぬだに恋しきものを、遠くはましていかに」というものでした。『評釈』は「七・七と続け、七・三で終わっている。内容の率直さも涙をさそうが、この歌を詠まんとする努力を秘めて、しかも完成しえなかった口つきは、内容とともに…読者のあわれをさそうであろう」と言います。

命婦は、源氏と藤壺の二人の逢瀬がそもそも自分が導きをしたことから始まって悲劇を招いたこと思って折々の思い出を辿り、心を傷めながら返事を書きます。

それによって読者も、一つの大きな区切りとして、二人の長かった道程を思い返すことになります。》

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第七段 桐壺院の御墓に離京の挨拶

【現代語訳】

 月を待ってお出かけになる。お供にわずか五、六人ほど、下人も気心の知れた者だけを連れて、お馬でいらっしゃる。言うまでもないことだが、以前のご外出とは違っている。皆とても悲しく思う中に、あの御禊の日、仮の御随身となってご奉仕した右近将監の蔵人が、当然得るはずの五位の位にも時期が過ぎてしまって、とうとう殿上の御簡も削られ、官職も剥奪されて面目がないので、お供に参る人数に入っている。
 賀茂の下の御社をそれと見渡せる辺りで、ふと思い出されて、下りてお馬の轡を取る。
「 ひき連れて葵かざししそのかみを思へばつらし賀茂のみづがき

(お供をして葵を頭に挿した御禊の日のことを思うと、御利益がなかったのかとつら

く思われます、賀茂の神様)」
と詠むのを、

「本当に、どんなに悲しんでいることだろう。誰よりも羽振りがよく振る舞っていたのに」とお思いになると、気の毒である。
 君も御馬からお下りになって、御社の方を拝みなさる。神にお暇乞い申し上げなさる。 「 憂き世をば今ぞ別るるとどまらむ名をばただすの神にまかせて

(辛い世の中を今離れて行く、後に残る噂の是非は、糺の神に委ねて)」
とお詠みになる様子を、感激しやすい若者なので、身にしみてご立派だと拝する。
 御陵に参拝なさって、御在世中のお姿がまるで眼前の事にお思い出しになられる。

この上ない地位にあった方でも、この世を去ってしまった人というのは、言いようもなく残念な思いがすることだ。たくさんのことを泣く泣く申し上げなさっても、そのことへの故院のお考えをはっきりとお承りになれないので、あれほどお考えになり言い置かれたいろいろなご遺言は、どこへ消え失せてしまったのだろうかと、何とも言いようがない。
 御陵は、参道の草が生い茂って、かき分けてお入りになって行くうちに、ますます露が深く涙がこぼれ、月も雲に隠れて森の木立は木深くものさびしい。帰る道も分からないほどに悲しみにくれて参拝なさっているところに、御生前の御姿が、はっきりとお見えになったのは、鳥肌の立つ思いである。
「 亡きかげやいかが見るらむよそへつつながむる月も雲隠れぬる

(亡き父上はどのように御覧になっていられることだろうか、父上のように思って見

ていた月の光も雲に隠れてしまった)」

 

《突然ここで、葵の巻の賀茂斎院御禊の折りに、源氏の随身役を勤めるという名誉を得た、当時の右近の蔵人が登場して、今、彼が全ての官職を取り上げられて、零落の源氏に付き従っている、という姿が描かれます。彼の失職は、もちろん、源氏方として羽振りを得た者への右大臣方からの圧迫人事であったのでしょう。

作者はあの時から、ここに登場させることを予定していたのでしょうか。源氏の青春時代の華やぎに花を添えた者が、ここでは一行の侘びしさを際だたせています。

ちょうど下賀茂神社が通り道で、彼はあの日のことを思い出さずにはいられませんでした。源氏に詠みかけた歌は、主人に籠を与えてくれない神に対するうらみを訴える「きつい歌」(『評釈』)です。

源氏は、内心では自分も同じ思いであり、またその若者の無念を思い遣って心を傷めながら、その思いを抑えて、彼の歌に、まあそう言うな、全ては神にお任せするのだ、と主人らしい鷹揚さで応じます。その振る舞い、物腰は相変わらず素晴らしいもので、従者の心をなだめ、力付けます。

先ほど源氏の侘びしさを際だたせる役だった彼は、一転してその美しさを称える役目も担うことになったわけです。

桐壺院の墓前にぬかづく源氏は、今の身の上が院の遺言(賢木の巻第二章第一段)とあまりにかけ離れていることを嘆きます。

ここで『評釈』は「(あの遺言は兄の朱雀帝の話したもので、それを)源氏が知っているのは、どうした事だ」と言い、「御遺言の場に侍する者が、さっそく源氏に知らせたのだ。そういう情報網がなければ、この時代、高位高官にすわってはいられない」とします。

しかしこれは少し姑息で、理に落ちた読み方ではないでしょうか。

どうせ書かれてはいない場面があると考えるなら、「侍する者」と源氏よりもむしろ、院と源氏とが会った時があって、そこで直接同じ話があったのだと考える方が、物語の格を保つのではないかと思います。

そして今また、一瞬、院の幻が、自分の遺言を信じられないでいる源氏を叱ろうとするように「はっきりとお見えになった」のでした。その厳しい姿に源氏は「鳥肌の立つ思い」がしたのでした。》


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