源氏物語 ・ おもしろ読み

ドストエフスキーの全著作に匹敵する(?)日本の古典一巻を 現代語訳で読み,かつ解く,自称・労大作ブログ 一日一話。

花散里の物語

第四段 花散里を訪問



【現代語訳】

 西面には、わざわざの訪問ではないように、人目に立たないようにお振る舞いになってお訪ねになったのも珍しいのに加えて、世にも稀なお美しさなので、恨めしさもすっかり忘れてしまいそうである。あれやこれやと、例によって、やさしくお語らいになるのも、お心にないことではないのであろう。
 かりそめにもお契りになる相手は、皆並々の身分の方ではなく、それぞれにつけて何の取柄もないとお思いになるような方はいないからであろうか、心変わりもなく、ご自分もお相手も情愛を交わし合いながら、お過ごしになるのであった。

そういう途絶えがちのお付き合いをつまらないと思う人は、何やかやと心変わりしていくのも、「無理もない、人の世の習いだ」と、思うようにしていらっしゃる。先程の垣根も、そのようなわけで、心変わりしてしまった類の人なのであった。


《この女性は、朝顔の君によく似た人のようで、こうした源氏のいわば身勝手なたまさかの訪れを、「恨めしさもすっかり忘れて」迎える人です。

 「先程の垣根」(先に訪ねた「中川の女」)はそういう訪れを堪えがたく思って、別の男を迎えるようになったのでしょうか、そういう女に対しては「無理もない、人の世の習いだ」として、しいて後を追うことはしない、それが源氏の流儀であるようです。

そのようにして源氏の前から消えていった女性が無数にいるということなのでしょうか。この場合去っていく女に対する同情がなく、源氏の流儀を是としているようであるのは、作者が女性でることを思うと、ちょっと不思議な気もします。

さて、後にこの人はもっときちんと描かれるのですが、この巻はこれだけで終わりです。この人については、ずっと後の、玉鬘の巻第四章第六段を参照して下さい。

何の事件も起こらず、ただ、源氏が昔なじみのゆかしい一人の女性を訪ねたというだけのことが、それがどういう人だったかと言うことさえほとんど書かれないまま、あたかも手習いの作のようにさらりと語られます。

前の葵の巻、賢木の巻と続けて、複数の激しい恋、人の死、政治的思惑や駆け引きといった、数々のドラマチックな物語が次々に語られて来た後に、一転してさわやかな夏の情景とともに淡い恋の物語が語られるこの巻を、『光る』が「しっかりした料理の間にシャーベットが一つ入っているといった感じです。この巻自体の値打ちはないけれども、これが入ったせいで、この長編小説全体が非常に読みやすくなっている」と評しています。》


 

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第三段 姉麗景殿女御と昔を語る

【現代語訳】

 あの目的の邸は、ご想像なさっていた以上に人影もなくて、ひっそりとお暮らしになっている様子を御覧になるにつけても、まことにおいたわしい。

まず女御のお部屋で昔のお話などを申し上げなさっているうちに、夜も更けてしまった。二十日の月が差し昇るころに、高い木の蔭になって一面にいっそう暗く見えて、近くの橘の薫りがやさしく匂い、女御のご様子は、お年を召しているが、どこまでも深い心づかいがあり、気品があって愛らしげでいらっしゃる。
「格別目立つような御寵愛こそなかったが、仲睦まじく親しみの持てる方とお思いでいらっしゃったが」などと、お思い出し申し上げなさるにつけても、昔のことが次から次へと思い出されて、ふとお泣きになる。
 ほととぎすが、先程の垣根のであろうか、同じ声で鳴く。「自分の後を慕って追って来たのだな」と思っていらっしゃるのも、優美である。「いかに知りてか(昔話をしていることをどうして知ってか)」などと、小声で口ずさみなさる。
「 橘の香をなつかしみ郭公花散る里を訪ねてぞとふ

(昔を思い出させる橘の香を懐かしく思って、ほととぎすが花の散ったこのお邸にや

って来ました)
 昔の忘れられない心の慰めには、やはりこちらに伺うべきでした。この上なく物思いの紛れることも、また増すこともございました。人は時流に従うものですから、昔話も語り合える人が少なくなって行くのを、私以上に所在なさも紛れることがなくお思いでしょう」と申し上げなさると、まことに言うまでもないこの頃の世情であるが、物をしみじみとお思い続けていらっしゃる女御のご様子が一通りでないのも、お人柄からであろうか、ひとしお哀れが感じられるのであった。
「 人目なく荒れたる宿は橘の花こそ軒のつまとなりけれ

(訪れる人もなく荒れてしまった住まいには、軒端の橘だけがお誘いするよすがにな

ってしまいました)」
とだけおっしゃるが、「やはり、他の女性とは違ってすぐれているな」と、ついお思い比べられる。

 

《まずは姉君の女御にご対面です。院の崩御から一年半、早くももうこの人は世の中から忘れ去られようとしている様子でした。

「(五月)二十日の月が差し昇るころに、高い木の蔭になって一面にいっそう暗く見えて」は、単に情景の説明のようですが、もちろん、「人影もなくて、ひっそりとお暮らしになっている」という彼女の境遇と、「どこまでも深い心づかいがあり」という人柄とをそれとなく感じさせて、昔を思い出させるという橘の香りがやさしく漂っていることと併せて、読者はこの女御の慎ましいゆかしさを思い遣ることができます。

さればこそ源氏も「昔の忘れられない心の慰めには、やはりこちらに伺うべきでした」という思いになり、歌を詠みます。

その歌は、自分をほととぎすになぞらえて、橘の花は散っても(すでに華やかな立場をお離れになっても)、ほととぎすは訪ねてきます、とこの方の魅力を詠み、私はそういうところに昔話をしにやって来ました、と言っているわけです。

そして巻の名前もこの歌によるのですが、これによってこの家が「花散る里」と呼ばれ、この女御の妹宮を、そこに住む姫君という意味でそのまま花散里と呼び習わし、この後度々登場して、比較的大きな役割を受け持つことになります。

「昔話も語り合える人が少なくなって行く」というのは、二十五歳の人が言う言葉には相応しくありませんが、源氏の老成したような物言いは昔からのもので、それに実際今の世の様変わりは彼にそういうことを思わせても、それほど不思議ではないでしょう。

女御の歌も、前の人柄を思い描いて読むと、何か、いかにもその人らしい歌という気がします。》

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第二段 中川の女と和歌を贈答

【現代語訳】

 特にこれといったお支度もなさらず目立たぬようにして、御前駆などもなくお忍びで、中川の辺りをお通り過ぎになると、木立など風情がある小さな家で、良い音色の琴を「東の調べ」に合わせて、賑やかに弾いているようである。お耳にとまって、門に近い所なので、少し乗り出して覗いて御覧になると、大きな桂の木を吹き過ぎる風に乗って匂ってくる香りに、葵祭のころをお思い出しになってどことなく趣があり、「一度だけ訪ねた家だ」とお気づきになる。

お気持ちが騒いで、「ずいぶんと時が経ってしまったことだ、覚えているかどうか」と気が引けるけれども、通り過ぎにくくて、ためらっていらっしゃると、ちょうどその時、「過ぎがてに(通り過ぎにくそうに)」というほととぎすが鳴いて飛んで行く。訪問せよと促しているかのようなので、お車を押し戻させて、例によって惟光をお入れになる。
「 をちかへりえぞ忍ばれぬ郭公ほのかたらひし宿の垣根に

(昔を思い出して懐かしさに堪えずほととぎすが鳴いています、ちょっと訪ねた家の

垣根で)」
 寝殿と思われる建物の西の角に女房たちがいた。以前にも聞いた声なので、咳払いをして相手の様子を窺ってから、お言伝てを申し上げる。若々しい女房たちの気配がして、不審に思っているようである。
「 郭公こととふ声はそれなれどあなおぼつかな五月雨の空

(ほととぎすの声ははっきり分かりますが、五月雨の空が曇っていて、いまごろどういうおつもりか、分かりかねます)」

 わざと分からないというふりをしていると見てとったので、惟光が、

「よろしい。『植えた垣根も(家を間違えたかも知れない)』」と言って出て行くのを、女は心の内では恨めしくも悲しくも思うのであった。
「そのように、遠慮しなければならない事情があるのであろう。無理もないから、さすがにそれ以上は言えない。このような身分の者では、筑紫の五節の舞姫がかわいらしげだったなあ」と、まっ先にお思い出しになる。
 どのような女性に対しても、お心の休まる間がなくご苦労なことである。長い年月を経ても、やはりこのように、かつて契ったことのある女性には、情愛をお忘れにならないので、かえっておおぜいの女性たちの物思いの種なのである。

 

《目当ての女性を訪ねていく途中で、別の昔の女性の家に声を掛けたところです。

梅雨の晴れ間、ほととぎすが鳴いて、琴の調べが聞こえる都の街外れ辺りの、美しい場面です。

こういう田舎の風景は、例えば、『枕草子』第二百六段(これも五月の話です)などのように、当時の女性貴族にとって新鮮で心弾むものだったのではないでしょうか。

源氏は、昔を思い出して歌を詠み掛けるのですが、家の女は、今ごろになって何を、という歌を返してきます。もう別の男が通って来ているのだろうと思って、それ以上は遠慮しながら、源氏はまた別の女性「筑紫の五節」を懐かしく思い出します。「五節の舞姫に選ばれたことのある娘…、前に源氏の恋人だった女。ここにはじめて名が見えるが、後の須磨の巻で、太宰の大弐の娘であるとわかる」と『集成』が注しています。

「どのような女性に対しても、お心の休まる間がなくご苦労なことである」というのは『谷崎』の訳で、原文は「いかなるにつけても、お心の暇なく苦しげなり」です。他の訳と「苦しげなり」の取り方が少し違っていて、おもしろい訳です。ちなみに、このもとの渋谷訳は「苦しそうである」でした。源氏自身の気持ちと考えているわけです。

まったく、こういうふうに書かれると、書かれている他に、どれほど多くの女性との関係があったのかと、あきれるしかないのですが、…。

先日友人とあれこれ話していて思いついたのですが、この物語で源氏は主人公ではなくて、狂言回しに過ぎず、本当は女性のさまざまな生き方、姿を描こうとしたものではないかという気がします。作者の意図はどうあれ、結果的には、源氏よりもそれぞれの女性の方が、よりリアルに、魅力的に描かれていると言えるのではないか、そんな話をしたことでした。》

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第一段 花散里訪問を決意

巻十一 花散里 光る源氏の二十五歳夏、近衛大将時代の物語

花散里の物語

第一段 花散里訪問を決意

第二段 中川の女と和歌を贈答

第三段 姉麗景殿女御と昔を語る

第四段 花散里を訪問


 

【現代語訳】

 人知れず、ご自分から求めての物思いは、いつものことのようであるが、このように世間一般のことにつけてまでも、困ったことになったとお悩みになることばかりが増えてゆくので、何となく心細く、世の中をおしなべて嫌にお思いになるが、そうも行かないことが多いのだった。
 麗景殿の女御と申し上げた方は、御子もいらっしゃらず、桐壺院が御崩御あそばした後、ますますお寂しいご様子を、わずかにこの大将殿のお心づかいに庇護されて、お過ごしになっているらしい。
 その御妹の三の君は、宮中辺りでちょっとお逢いになった縁で、例のご性格なので、すっかりお忘れにはならず、かといって格別のお扱いになるというのでもないので、女君がもの思いの限りを尽くしていらっしゃるらしいのを、この頃何もかもにつけての物思いにお悩みになっていらっしゃる世の中の無常をそそる種の一つとして、お思い出しになると、抑えきれなくて、五月雨の空が珍しく晴れた雲の切れ間にお出向きになる。


《巻の名前は第三段で詠まれる源氏の歌に由来します。

さて、源氏の藤壺や朧月夜の君への思いは、表向き、誰も知らないことになっています。そういう、源氏が自分でまいた種でもの思いするということは、「いつものことであるが」と、作者は新しい巻を皮肉に書き起こします。

しかし源氏にとって、そういうもの思いの他に、新たに政治的な駆け引き、権力争いの問題まで被さってくるというのは、想定を越えた煩わしさです。

彼は、またしても出家を思わないではないのですが、「そうも行かないこと」が、色々あるのです。

その一つが、と言って、新しい女性の物語が始まります。桐壺帝の時の麗景殿の女御であった方の妹君で、この物語では、全く初めての登場です。

以前からの交際のようですが、「格別のお扱いになるというのでもない」方で、女君の方がひとり「もの思いの限りをつくしていらっしゃる」のでしたが、源氏は「この頃何もかもにつけての物思いにお悩みになっていらっしゃる世の中の無常をそそる種の一つとして」ふと思い出して訪ねていきます。大変分かりにくい気持ちの動きのように思われますが、つまりは他のことでずいぶんな物思いをしていて(朧月夜の君のことで当面彼はそれについては事欠かないでしょう)、その合間に、そういえばそういう人がいた、とふと思い出したら、その人もあのまま放ってはおけないと気になりだして、様子を窺いに出かけた、というようなことなのでしょうか。

前にも書きましたが、こういう男性は、普通に考えれば、女性にとって大変厄介な相手であろうと思われます。待ちあぐね、待ちあぐねして、堪えられずに思い切ろうとする頃になって、またふらりとやってきて、妙に期待を抱かせる、ある意味で、許し難い男です。

それでも作者は、源氏を咎めることがまったくありません。それはこの時代、身分の不安定な女性にとって、一度関係のできた女性を決して最後まで見捨てることがない男性は、もっとも頼りになる、つまりもっとも男らしい人であったからでしょう。

前の巻の女性たちがそれぞれに濃厚な自己を持っていたのに比べて、この巻の女性は、極めて静かでゆかしい人たちです。その分余計に源氏の好意が光るとも言えます。

ところで「お思い出しになると、抑えきれなくて」というのが、いささか唐突で、逆に、ここにこの人々が出てこなくてはならないストーリー上の必然性が薄いことを明かしているように思われますが、それはこの巻の役割にも関係するはずで、それは最後に触れることにします。》



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