【現代語訳】2
枯れた下草の中に、龍胆や撫子などが咲き出したのを折らせなさって、中将がお帰りになった後に、若君の御乳母の宰相の君に持たせて、
「 草枯れのまがきに残るなでしこを別れし秋のかたみとぞ見る
(草の枯れた垣根に咲き残っている撫子の花を、過ぎ去った秋の形見と思います)
美しさは劣ると御覧になりましょうか」と大宮に差し上げなさった。
なるほど若宮の無邪気な微笑み顔はたいそうかわいらしい。宮は、吹く風につけてさえ木の葉よりも脆いお涙で、まして源氏のお手紙は手に取ることさえおできになれない。
「 今も見てなかなか袖を朽たすかな垣は荒れにしやまとなでしこ
(ただ今見てもかえって袖を涙で濡らしております、垣根も荒れはててしまった撫子
なので)」
依然として、ひどく所在のない気がするので、朝顔の宮に、「今日の物悲しさは、あの方ならお分りになられるであろう」と推察されるお心の方なので、暗くなった時分であるが、お手紙を差し上げなさる。たまにしかないが、それが普通になってしまったお便りなので、女房たちは気に止めず御覧に入れる。空の色をした唐の紙に、
「 わきてこの暮れこそ袖は露けけれもの思ふ秋はあまたへぬれど
(とりわけ今日の夕暮れは涙に袖を濡らしております、今までにも物思いをする秋は
たくさん経験してきたのですが)
いつも時雨の頃は」とある。
ご筆跡など心を込めてお書きになっているのが、いつもより見栄えがして、「放って置けない場合です」と女房も申し上げ、ご自身もそのようにお思いになったので、
「お引き籠もりのご様子をお察し申し上げながら、こちらからお便りはとてもお出しできませんでした」とあって、
「 秋霧に立ちおくれぬと聞きしよりしぐるる空もいかがとぞ思ふ
(秋霧の立つころ、先立たれなさったとお聞き致しましたが、それ以来時雨の季節に
つけ、いかほどお悲しみのことかとお察し申し上げます」
とだけ、淡い墨色で、気のせいか奥ゆかしい。
どのような事柄につけても、付き合うほどに見勝りがするのは難しいのが世の常のようなのに、冷たい人にかえってお心が惹かれになるご性質の方なのである。
「すげないお扱いながらも、しかるべき時節折々の情趣はお見逃しなさらない、こういう間柄こそ、お互いに情愛を最後まで交わし合うことができるものだ。やはり教養があり風流好みが過ぎて、人目にも付くくらいなのは、よけいな欠点も出て来るものだ。対の姫君を、決してそのようには育てまい」とお考えになる。
「所在なく恋しく思っていることだろう」と、お忘れになることはないが、まるで母親のない子を一人残して来ているような気がして、会わない間は気がかりで、しかし「どのように嫉妬しているだろうか」と心配がないのは、気楽なことであった。
《源氏の歌の「なでしこ」は「撫でし子」で若宮を暗示し、すると「別れし秋」は「妻に死に別れた秋」の意味になり、添え書きの「美しさは劣ると御覧になりましょうか」は、「若宮を見ても慰められないのではないかと案じる気持ち」(『集成』)を言ったもの、となります。若宮の乳母を使いにしたのですから、若宮を抱いて行かせたのでしょうか。
ここで、大宮だけが若宮を見るのではなく、読者も久し振りにその「無邪気な微笑み顔はたいそうかわいらしい」という若宮の姿を見ることになります。そういう忘れ形見のあどけない微笑みは、ほっとする安らぎを与える一面、逆に周囲の悲哀感が逆にいっそうかき立てられ、また読む者に対してはそれが強調されることになります。先にも書いたように、この作者の得意とする描き方です。
わびしく所在ないままに、ふと思い出して、源氏は朝顔の宮に便りを出します。この人は帚木の巻でも話題になった人(第三章第二段2節)ですから、もう五年に渡る付き合いで、懇ろにしている女性の中で、こういう時に一番安心して話のできる人だったのでしょう。葵祭の当日の話の中(葵の巻第一章第二段4節)に出てきたように、宮自身も、源氏と付かず離れずという態度を、取っている人でした。
それにしても、源氏の間遠な便りに対してお付きの女房たちの「気に止めず御覧に入れる(原文・咎なくてご覧ぜさす)」というのが、控えめな宮におおらかなお付きの者といった取り合わせで愉快ですが、しかもその一方で、「放って置けない時です」と適切な進言をするあたり、なかなか立派なお付きだと思われます。
宮から期待に違わぬ返事が送られてきます。「淡い墨色で(原文・ほのかな墨つきにて)」は、黒々と鮮明に書かれるのに比べて、優しさや傷みが感じられて「奥ゆかしい」というのでしょう。「すげないお扱いながらも、しかるべき時節折々の情趣はお見逃しなさらない」、そういうところにゆかしい宮の人柄を感じて、若紫をそのように育てなくてはならないと、源氏は考えます。
この部分の原文は「つれなながらも、さるべきをりをりのあはれを過ぐしたまはぬ」で、「つれなながらも」の訳は、「何気ないふうでいながら」というようにもっと一般的な意味に、取るのがよいのではないかという気もします。そう考えると、これは中世の「秘すれば花」の美学に通じる、日本独特の美意識の原型とも言えるもので、例えば『枕草子』の溢れる才気の競い合いなどとは明らかに異なる方向に向かうものと思われます。
ともあれ、葵の上の喪に服している間に、第二章第七段2節とここに、ちらちらと若紫の話題が出てきて、読者は知らず知らずのうちに、次第にこの巻の大詰めに向かって導かれていきます。》