源氏物語 ・ おもしろ読み

ドストエフスキーの全著作に匹敵する(?)日本の古典一巻を 現代語訳で読み,かつ解く,自称・労大作ブログ 一日一話。

第一章 六条御息所の物語

第三段 賀茂祭の当日、紫の君と見物~その2

【現代語訳】2

 今日も、見物の車は隙間なく立ち並んでいるのであった。馬場殿の付近に止めあぐねて、
「上達部たちの車が多くて、何とも騒がしい所だな」と、ためらっていらっしゃると、派手に袖口を見せているちょっと立派な女車から、扇を差し出して供人を招き寄せ、
「ここにお止めになりませんか。場所をお譲り申しましょう」と声を掛けてきた。

「どのようなしゃれ者だろう」とお思いになって、場所もなるほど適した所なので、お引き寄せになって、
「どのようにしてお取りになった所かと、羨ましくて」とおっしゃると、風流な桧扇の端を折って、
「 はかなしや人のかざせるあふひゆゑ神のゆるしのけふを待ちける

(あら情けなや、他の人とお逢いになっているとは、神の許す今日の機会を待ってい

ましたのに)
 神域のような所には入れませんね」とある筆跡をお思い出しになると、あの典侍なのであった。「あきれたことに、年甲斐もなく若ぶっていることだ」と、憎らしくて、無愛想に、
「 かざしける心ぞあだにおもほゆる八十氏人になべてあふひを

(そういうあなたの心こそ当てにならないと思いますよ、誰彼となく靡くのだから)」

女は、「ひどい」とお思い申し上げるのであった。
「 くやしくもかざしけるかな名のみして人だのめなる草葉ばかりを

(ああ悔しい、逢う日を葵を頼りにしていたのに、期待を抱かせるだけの草葉でした

よ)」と申し上げる。

女性と同車していて簾さえお上げにならないのを、妬ましく思う人々が多かった。「先日のご様子が端麗でご立派であったのに、今日はくだけていらっしゃること。誰だろう。一緒に乗っている人は、悪くはない人に違いない」と、推察申し上げる。

「張り合いのない、かざしの歌争いであったな」と物足りなくお思いになるが、この女のように大して厚かましくない人は、やはり女性が相乗りなさっていることに自然と遠慮されて、ちょっとしたお返事も、気安く申し上げるのも、面映ゆいに違いない。

 

《源氏が若紫を連れて祭り見物にやって来ると、混雑の中で車の場所を譲ってくれた女車がありました。それは、紅葉賀の巻(第四章)で戯れた、もう六十にもなろうというあの源典侍だったのです。

 御息所と葵の上の激しいトラブルの後、若紫に心を癒やしたところへの、道化役の登場です。そういえば、あの時も、藤壺の御子出産にさまざまに心を砕いたあと、同じようにこの若紫に心を癒した話に続いての話でした。

 重たい話の間に軽いエピソードを挟んだといったところでしょうか、「多情な老女の、罪のない浮気心による厚意であって、滑稽以外の何物でもない。御禊の日の肩こりをとるだけの意味はある」(『構想と鑑賞』)話です。

 と同時に、既に読者が知っているこの特異な老女の登場は、ああ、あなたも来ていたのかと思わせられて、この祭り見物にいかにさまざまな人が集っているか、ということを物語り、群衆の幅を感じさせます。

そしてまた、この女性をみっともなく描くことで、隣に座っているはずの若紫のかわいらしさを、一言も語らないまま、自然と思い描かせることにもなります。

こういう小さな息抜きのあと、物語はこの章の本題である、最初の大きな事件を迎えるのです。》



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第三段 賀茂祭(葵祭)の当日、紫の君と見物~その1

【現代語訳】1

 今日は、二条の院にお離れになって祭を見物にお出かけになる。西の対にお渡りになって、惟光に車のことをお命じになった。
「女房方も出かけますか」とおっしゃって、姫君がとてもかわいらしげにおめかししていらっしゃるのを、ほほ笑みながら拝見なさる。
「あなたは、さあいらっしゃい。一緒に見物しようね」と言って、髪がいつもより美しく見えるので、かき撫でなさって、
「長い間、お切り揃えにならなかったようだが、今日は、日柄も吉いのだろうかな」と言って、暦の博士をお呼びになって、時刻を調べさせたりしていらっしゃる間に、
「まずは、女房たちから出発だよ」と言って、童女の姿のかわいらしい装いを御覧になる。とてもかわいらしげな髪の裾を、皆こざっぱりと削いで、浮紋の袴に掛かっている様子が、くっきりと見える。
「あなたのお髪は、わたしが削ごう」と言って、「何と、ずいぶんたくさんあるのだね。どんなに長くおなりになることだろう」と、削ぐのに苦労していらっしゃる。
「ずいぶん髪の長い人も、額髪は少し短めにしているようだが、少しも後れ毛のないのも、かえって風情がないだろう」と言って、削ぎ終わって、「千尋(に伸びるように)」とお祝い言を申し上げになさるのを、少納言は、「何とももったいないことよ」と見申し上げる。
「 はかりなき千尋の底の海松ぶさの生ひゆくすゑはわれのみぞ見む

(限りなく深い海の底に生える海松のように、豊かに成長してゆく黒髪はわたしだけ

が見届けよう)」

と申し上げなさると、
「 千尋ともいかでか知らむさだめなく満ち干る潮ののどけからぬに

(千尋も深い愛情を誓われてもがどうして分りましょう、満ちたり干いたり定めない

潮のようなあなたですもの)」

と、何かに書きつけていられる様子は、いかにも物慣れている感じがするが、初々しく美しいのを、素晴らしいとお思いになる。

 

《葵の上の悪阻のための不快や御息所の煩悶をよそに、源氏は葵祭の日、若紫と戯れています。「今日は、二条の院にお離れになって(原文・今日は、二条院に離れおはして)」とありますから、そういう気詰まりな方々から、文字どおり「離れて」という気持ちなのでしょう。

ここでは源氏は快活です。「女房方も出かけますか」と呼びかけた相手は、本当の女房ではなくて、若紫の遊び相手で、祭り見物に行けるとあって着飾りはしゃいでいる童女たちをからかっての言葉で、源氏の浮き立っている気分がよく出ています。

源氏はかいがいしく若紫の髪をくしけずります。成人の女性に対してなら、あまりに露骨な愛情表現というべき見苦しい振る舞いなのであって、ここは相手が子供だからこそ許されることでしょう。

ところが源氏が詠みかけた歌への返しの歌の詠み振りは、「いかにも物慣れている感じがする」どころではなく、全く一人前の女性のものです。ただ、その歌を直接源氏に向かって返すのではなく、「何かに書きつけて」いるというのが、普通と違って、子供らしい羞じらいがあります。『評釈』の言うように「おませな口つき」と「しぐさの子供っぽさ」のアンバランスを「初々しく美しい」と感じて、「一層愛らしい」と源氏は思ったでしょう。普段、彼よりも大人の女性との交渉で重荷を背負っている感じの彼にとって、こういう無邪気で、しかも彼に全面的な信頼を置いている、魅力的な娘との時間は、かけがえのない時間であったに違いありません。》


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第二段 新斎院御禊の日の車争い ~その4


【現代語訳】4

 まして、あちらこちらのお忍びでお通いになる方々は、人数にも入らない嘆きを募らせる方も多かった。

 式部卿の宮は、桟敷で御覧になった。「まこと眩しいほどにお美しくなって行かれるご器量よ。神などが眼をお止めにならねばよいが」と、不吉にお思いになっていた。朝顔の姫君は、数年来源氏のお手紙をお寄せ申していらっしゃるお気持ちが世間の男性とは違っているので、並の男であってもそれだけ深い愛情をお示しならば心引かれるのに、ましてこんなに美しくていらっしゃるのだから、どうして心引かれないことがあろうかと、お心が動いた。しかしそれ以上近づいてお逢いなさろうとまではお考えにならない。そのまわりで若い女房たちは、聞き苦しいまでに源氏をお褒め申し上げていた。

 葵祭の当日は、大殿におかれてはご見物なさらない。

大将の君に、あのお車の場所争いをそっくりご報告する者があったので、「とても気の毒に情けない」とお思いになって、
「どうも惜しいことに、重々しくていらっしゃる人が、物事に情愛に欠けてまっすぐなところがおありになるあまり、ご自身はさほどお思いにならなかったようだが、このような妻妾の間柄では情愛を交わしあうべきだともお思いでないお考えのままに、下々の者が争いをさせたのであろう。御息所は、気立てがとても奥ゆかしく、上品でいらっしゃるのに、どんなに嫌な思いをされたことだろう」と、気の毒に思って、お見舞いに参上なさったが、斎宮がまだ元の御殿にいらっしゃるので、神事の憚りを口実にして、気安くお会いなさらない。もっともなことだとはお思いになるが、「どうしたことだ。こんなにお互いによそよそしくなさらずいらっしゃればよいものを」と、ついご不満が呟かれる。

 

《祭り見物の下々の人の様子を描いてきて、急に「まして」と言われて戸惑いますが、前の御息所の話の続きです。街のそうした賑わいの中で、御息所でさえも「大臣家とひきくらべれば日陰者同様」(『評釈』)の憂き目を見るのだから、他の方々は言うに及ばないというわけです。

 そうした中でただ一人、源氏に対して独特のスタンスを保っている人がいます。それが朝顔の君です。

御禊の日の話の最後は、式部卿(桐壺帝の弟)とその姫君(朝顔の君)というハイソサエテイの人を出して源氏を絶賛させて、それでその美しさ、立派さが保証されることになりますが、同時に、それにもかかわらずその源氏に靡くまい、「何としても、人の二の舞は演じまい」(葵の巻第一章第一段3節)という意志を崩さない姫君の姿を描きます。それも、まわりで源氏を褒めそやす女房たちに囲まれながら、です。

さて、日が替わって新斎院の賀茂神社参拝の当日、葵の上は見物に出かけようともしません。理由はなにも書かれず、それだけですが、あとの源氏の思いと合わせると、源氏の思いとは逆に、あの車争いは彼女にとっても心の傷となったということではないでしょうか。しぶしぶ出かけたところ、つまらぬ争いを起こしてしまった、いや、彼女からすればそれに巻き込まれてしまったという思いが、彼女をもまた、閉じこもりがちにさせているように感じられます。

源氏は車争いの話を聞いて「とても気の毒に情けない」と思いますが、それは妻についてではなく、御息所についてのようで、妻を批判しますが、もとはと言えば自分が蒔いた種であることにことさらに眼をつぶって、彼女に求めることだけ過大で、虫のいいものであるようにしか聞こえません。そして彼はひたすら御息所に対して同情的ですが、こちらはといえば、あの時葵の上と源氏の双方から受けた(と彼女が感じた)屈辱の傷が癒やし難く深く、到底会う気になどなれません。

それを源氏はまた知らぬげに、二人が仲良くしてくれればいいのに、などとのんきなことを考えているのは、まったく時代の考え方なのでしょう。作者もそれに別段異議を感じてはいないようです。

彼は人の望む多くの条件を兼ね備えた、類まれな貴公子ですが、自分の行動をふり返って真摯に反省し、それによって行動を改めるということは、ほとんどありません。彼の成長は植物の生長に似て、ひたすら拡大していくだけのようです。

こういう男に対して女性の取るべき態度の一つの模範が、朝顔の君のスタンスなのだと、いうのが作者の考えなのかもしれません。それによって彼女は、帚木の巻で「式部卿宮の姫君に、朝顔の花を差し上げなさった」と登場した時(第三章第二段2節)から既に五年間(そしてこれからもずっと)、源氏の心を、不即不離の状態ではあるものの、ともかくも惹き続けているのです。》


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第二段 新斎院御禊の日の車争い ~その3

【現代語訳】3

 本当に、いつもより趣向を凝らした幾台もの車が、自分こそはと競って見せている出だし衣のそれぞれの下簾の隙間も、源氏は、何くわぬ顔だが、ほほ笑みながら流し目に目をお止めになることもある。大殿の車は、それとはっきり分かるので、真面目な顔をしてお通りになる。お供の人々はそちらにうやうやしく、敬意を表しながら通るので、御息所は打ち負かされた自分の有様を、この上なく堪らなくお思いになる。
「 かげをのみみたらし川のつれなきに身の憂きほどぞいとど知らるる

(今日の御禊にお姿をちらりと見たばかりで、そのつれなさにかえって我が身の不幸

せがますます思い知られる)」

と思わず涙のこぼれるのを女房の見る目も体裁が悪いが、目映いばかりのご様子、容貌が、一層見事な晴れの場でのお姿を見なかったら、どんなに残念だったか、とお思いになる。

 供奉の人々は、それぞれ身分に応じて、装束、供人の様子をたいそう立派に整えていると見える中でも、上達部はまことに格別であるが、源氏お一方のご立派さには圧倒されているようである。大将の臨時の随身に殿上人の将監などが務めることは通例ではなく、特別の行幸などの折にあるのだが、今日は右近の蔵人の将監が供奉申している。それ以外の御随身どもも、容貌、姿を眩しいくらいの者を揃えて、世間から大切にされていらっしゃるという様子は、木や草も靡かないものはないほどである。
 壺装束などという姿をして、賎しくはない女房や、また世を捨てた尼なども、倒れたりふらついたりしながら見物に出て来ているのも、いつもなら、「よせばいいのに、ああみっともない」と思われるのに、今日は無理もないことに思われ、老いて口もとがすぼんで、髪を着物にたくし込んだ下女どもで、手を合わせて額に当てながら拝み申し上げている者や、間の抜けた顔の下男までが、自分の顔がどんな顔になっているのかも考えずに嬉色満面でいる。まったくお目を止めになることもないつまらない受領の娘などまでが、精一杯飾り立てた車に乗り、ことさらに気取っているのが、おもしろいさまざまな見物であった。

 

《源氏は、車の中から、見物の車の女性たちに流し目を送りながら進んでいくのですが、その見物の中に思いがけず、正室の、「改まったふうでな」いと言っても一際眼を引く車を見つけて急にまじめな顔にもどって威儀を正し、従者達も一斉に敬意を表して通って行きます。

 それに比べて、わざと姿をやつした、それも後の方に押しやられた、御息所の車には、もちろんそれと気づきもしませんから、無視して通り過ぎます。

扱いの違いをまざまざと見ることになった御息所は、先にも増して自分の立場を痛切に思い知らされるのですが、なおまだ源氏の晴れ姿を見ないではおれないという自分に源氏への思いの深さに、改めて気付くのです。

沿道の見物人が源氏を見る様子が綴られますが、その語り方は、源氏の立派さが「木や草も靡かないものはないほどである」とあって、その後に「壺装束…」が出てくるので、まるで「壺装束…」が、その木、草であるかのごとくです。

『枕草子』第二百九十四段に、作者達女房のいる縁側に、家の火事で焼け出された下男がやって来て、泣きながら援助を求めたのを、みんなして「いみじう」笑った挙げ句、字の読めないその男に戯れ歌を書いた短冊を投げて与えて追っ払い、あとで誰かに読んでもらって驚くだろうと話してまた大笑いした、という話が載っています。

それはあたかも、犬が芸をしているのを、人間並みなことをしていると面白がっているのと同じ感覚に思われますが、ここでの沿道の庶民の描き方も、そういう面が如実で、読んでいて切ない気がするほどです。

同じように祭り見物の群衆を描いたものに、三百年ほど後の『徒然草』第百三十七段があって、こちらも群衆のあり方に対して厳しく批判的ですが、しかし群衆自体は活気に溢れ、それなりに躍動しています。

その相違は、作者の視点の相違であるとともに、また同時に、庶民の時代による相違なのでしょうか。


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第二段 新斎院御禊の日の車争い~その2

【現代語訳】2

 日が高くなってから、お支度も改まったふうでなくお出かけになった。隙間もなく立ち混んでいるので、美々しく引き連ねて場所を探しあぐねる。身分の高い女車が多いので、下々の者のいない隙間を見つけて、車をみな退けさせた中に、少し使い込んだ網代車で、下簾の様子などの趣味がよいうえに、とても奥深く乗って、わずかに見える袖口や裳の裾、汗衫などの衣装の色合の、とても美しくて、わざと質素にしている様子がはっきりと分かる車が、二台ある。
「この車は、決してそのように押し退けたりしてよいお車ではありませぬ」と言い張って、手を触れさせない。どちらの側も若い供人同士が酔い過ぎて争っている事なので、抑えることができない。年輩のご前駆の人々は、「そんなことするな」などと言うが、とてもとめることができない。
 斎宮の御母御息所が、何かと思い悩んでいられる気晴らしにもなろうかと、こっそりとお出かけになっているのであった。目立たないようにしてはいるが、自然と分かる。
「それくらいの者に、そのような口はきかせるな大将殿の威光を、笠に着ているつもりなのだろう」などと言うのを、その大将の方の供人も混じっているので、御息所を気の毒にとは思いながら、仲裁するのも面倒なので、知らない顔をする。
 とうとう、お車を立ち並べてしまったので、副車の奥の方に押しやられて、何も見えない。悔しい気持ちはもとより、このような忍び姿を自分と知られてしまったのが、ひどく悔しいこと、この上ない。榻などもみなへし折られて、場違いな車の轂に掛けたので、またとなく体裁が悪く悔しく、「いったい何しに、来たのだろう」と思ってもどうすることもできない。見物を止めて帰ろうとなさるが、抜け出る隙間もないでいるところに、「行列が来た」と言うので、そうは言っても、恨めしい方のお通り過ぎが自然と待たれるというのも、意志の弱いことよ。「笹の隈(馬を休める物陰)」でもないからか、そっけなくお通り過ぎになるにつけても、かえって物思いの限りを尽くされる。

 

《いわゆる「車争い」の場面です。折り悪く葵の上の車が、人混みの中で、気晴らしにと思って出かけて来ていた六条御息所の車と出くわして、場所取りを争うことになり、それを押しのけてしまったために、そうでなくても傷ついている御息所の心にいっそう追い打ちをかけることになってしまいました。

葵の上の側にとっては、渋々のお出かけ、急な思い立ち、酒の入った従者と拙い条件が重なっての、さしたる意図もないままに起こった不運な出来事にすぎなかったのですが、「ものごとをあまりにも深くお思い詰めなさる」という御息所には取り返しの付かない屈辱でした。

そこに「大将の方の供人も混じっているので、御息所を気の毒にとは思いながら、仲裁するのも面倒なので、知らない顔をする」という一節が入ります。このことは書かなくてもストーリーとしては何の不都合もありませんが、別の思惑の人々が入り込むことによって、単に対立する二組の人々の諍いというだけでなく、人間模様が一挙に複雑になり、状況が厚みを増して、現実感がでます。

 

そうでなくても鬱屈した思いに、辱められた無念さが加わって、御息所はいっそ帰ってしまいたいのですが、奥の方に押しやられてそれも出来ず、とこうするところに源氏の行列が来たことが知れると、やはり人目と思ってしまう女心です。「そうは言っても、…意志の弱いことよ」という一言が、痛烈です。

しかし源氏は、当然ながら御息所のそんな思いも知らずに、御息所からすれば「そっけなくお通り過ぎになる」のでした。彼女の張り裂けそうな胸の内が思い遣られて、傷ましい気がします。》


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