【現代語訳】2
今日も、見物の車は隙間なく立ち並んでいるのであった。馬場殿の付近に止めあぐねて、
「上達部たちの車が多くて、何とも騒がしい所だな」と、ためらっていらっしゃると、派手に袖口を見せているちょっと立派な女車から、扇を差し出して供人を招き寄せ、
「ここにお止めになりませんか。場所をお譲り申しましょう」と声を掛けてきた。
「どのようなしゃれ者だろう」とお思いになって、場所もなるほど適した所なので、お引き寄せになって、
「どのようにしてお取りになった所かと、羨ましくて」とおっしゃると、風流な桧扇の端を折って、
「 はかなしや人のかざせるあふひゆゑ神のゆるしのけふを待ちける
(あら情けなや、他の人とお逢いになっているとは、神の許す今日の機会を待ってい
ましたのに)
神域のような所には入れませんね」とある筆跡をお思い出しになると、あの典侍なのであった。「あきれたことに、年甲斐もなく若ぶっていることだ」と、憎らしくて、無愛想に、
「 かざしける心ぞあだにおもほゆる八十氏人になべてあふひを
(そういうあなたの心こそ当てにならないと思いますよ、誰彼となく靡くのだから)」
女は、「ひどい」とお思い申し上げるのであった。
「 くやしくもかざしけるかな名のみして人だのめなる草葉ばかりを
(ああ悔しい、逢う日を葵を頼りにしていたのに、期待を抱かせるだけの草葉でした
よ)」と申し上げる。
女性と同車していて簾さえお上げにならないのを、妬ましく思う人々が多かった。「先日のご様子が端麗でご立派であったのに、今日はくだけていらっしゃること。誰だろう。一緒に乗っている人は、悪くはない人に違いない」と、推察申し上げる。
「張り合いのない、かざしの歌争いであったな」と物足りなくお思いになるが、この女のように大して厚かましくない人は、やはり女性が相乗りなさっていることに自然と遠慮されて、ちょっとしたお返事も、気安く申し上げるのも、面映ゆいに違いない。
《源氏が若紫を連れて祭り見物にやって来ると、混雑の中で車の場所を譲ってくれた女車がありました。それは、紅葉賀の巻(第四章)で戯れた、もう六十にもなろうというあの源典侍だったのです。
御息所と葵の上の激しいトラブルの後、若紫に心を癒やしたところへの、道化役の登場です。そういえば、あの時も、藤壺の御子出産にさまざまに心を砕いたあと、同じようにこの若紫に心を癒した話に続いての話でした。
重たい話の間に軽いエピソードを挟んだといったところでしょうか、「多情な老女の、罪のない浮気心による厚意であって、滑稽以外の何物でもない。御禊の日の肩こりをとるだけの意味はある」(『構想と鑑賞』)話です。
と同時に、既に読者が知っているこの特異な老女の登場は、ああ、あなたも来ていたのかと思わせられて、この祭り見物にいかにさまざまな人が集っているか、ということを物語り、群衆の幅を感じさせます。
そしてまた、この女性をみっともなく描くことで、隣に座っているはずの若紫のかわいらしさを、一言も語らないまま、自然と思い描かせることにもなります。
こういう小さな息抜きのあと、物語はこの章の本題である、最初の大きな事件を迎えるのです。》