源氏物語 ・ おもしろ読み

ドストエフスキーの全著作に匹敵する(?)日本の古典一巻を 現代語訳で読み,かつ解く,自称・労大作ブログ 一日一話。

第三章 藤壺の物語(二)

第四段 源氏、紫の君に心を慰める~その3

【現代語訳】3
 このように、引き止められなさる時々も多くあるのを、自然と漏れ聞く人が、大殿にも申し上げたので、
「誰なのでしょう。とても失礼なことではありませんか」
「今まで誰それとも知れず、そのようにお側にくっついたまま遊んだりするような人は、上品な教養のある人ではありますまい」
「宮中辺りでちょっと見初めたような女を、ご大層にお扱いになって、人目に立つかと隠していられるのでしょう。分別のない幼稚な人だと聞きますから」などと、お仕えする女房たちも噂し合っていた。
 お上におかれても、「このような女の人がいる」と、お耳に入れあそばして、
「気の毒に、大臣がお嘆きということも、なるほどまだ若輩だったそなたを一生懸命にこれまでに仕立て上げた大臣の心づくしがどれほどか、それがわからぬ年頃でもあるまいに。どうして薄情な仕打ちをなさるのだろう」と仰せられるが、恐縮した様子で、お返事も申し上げられないので、「女君がお気に入らないようだ」と、かわいそうにお思いあそばす。
「その一方では、好色がましく振る舞って、ここに見える女房であれ、またここかしこの女房たちなどと、浅からぬ仲に見えることもないし、噂も聞かないようだが、どのような人目につかない所にあちこち隠れ歩いて、このように人に怨まれることをしているのだろう」と仰せられる。

 

《こうして大殿への訪れが途絶えがちになるので、葵の上の女房たちからは不満が漏れます。しかしその不満は、源氏に対してではなくて、対抗する形になる女性に向けられているというのが、おもしろいところです。

 そしてその非難が、二条院の姫が幼い少女だと思いもしないままに、相手を「お側にくっついたまま遊んだりするような人」とか「分別のない幼稚な人」と評しているのが、なんともおもしろいところです。

その話が帝の耳に入り、源氏に対して意見をします。言葉としてはかなり厳しいもののように思いますが、すぐに「『女君がお気に入らないようだ』と、かわいそうにお思いあそばす」と思ったというのは、かわいいと思っている故の甘さで、意見もやや腰折れの感があります。

と、ここまででこの巻の主要な話は終わりです。ということは、源氏にとってこの三人の女性との交渉がこのままの状態でしばらく続いたということになります。

そしてその背後で起こった、ばかばかしいエピソードが語られるのが、次の一章です。》


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第四段 源氏、紫の君に心を慰める~その2

【現代語訳】2

 大殿油を燈して絵などを御覧になっていると、お出かけになるとあったので、供人たちが咳払いし合図申して、
「雨が降って来そうでございます」などと言うので、姫君はいつものように心細くてふさいでいらっしゃる。絵を見ることも途中のままやめて、うつ伏していらっしゃるので、とても可憐で、お髪がとても見事にこぼれかかっているのを、かき撫でて、
「出かけている間は寂しくお思いか」とおっしゃると、こっくりなさる。

「私も、一日もお目にかからないでいるのは、とてもつらいが、幼くていらっしゃるうちは気安くお思い申して、まず、ひねくれて恨み言をいう人の機嫌を損ねまいと思って、それが厄介なので、暫くはこのように出かけもするのですよ。大人におなりになったと思ったら、他の所へは決して行きませんよ。人の嫉妬を受けまいなどと思うのも、長生きをして、思いのままに一緒にお暮らし申したいと思うからですよ」

などと、こまごまとご機嫌をお取り申されると、さすがに恥じらって、何ともお返事申し上げなされない。

そのままお膝に寄りかかって、眠っておしまになったので、とてもいじらしく思って、
「今夜は出かけないことにした」とおっしゃると、皆立ち上がって、御膳などをこちらに運ばせた。姫君を起こしてさし上げにさって、
「出かけないことになった」とお話し申し上げなさると、機嫌を直してお起きになった。

 ご一緒にお食事を召し上がる。ほんのちょっとお箸を付けになって、
「では、お寝みなさい」と不安げに思っていらっしゃるので、このような人を放ってはどんな道であっても出かけることはできない、と思われなさる。

 
《ここから呼び方がまた「姫君」にもどって、純真で素直な、幼い振る舞いになります。こうした少女は、しばしば大人の(と言っても、源氏もまだ十九歳なのですが)心を捉えて、魅惑します。

「絵を見ることも途中のままやめて…、とおっしゃると、こっくりなさる」などというあたりは、まったく目の前に見るようで、読むだけでいとおしいような気がします。

それでも源氏は、例の女性を口説く口上手で、いろいろとなだめすかそうとするのですが、姫君はそれを聞きながら、その膝の上であどけなく眠ってしまいうのです。こういう少女を措いて出かけることなどできないというのは、よく理解できます。

とうとう源氏も出かけるのをやめて、食事を運ばせることになりました。

ところでここの源氏の夜歩きの言い訳は、当時女房たちにとってどのくらいの普遍性を持っていたのでしょうか。今読むと、全くの子供だましの話としか思われないように思います。作者はこの源氏の言葉を、納得できるものとして書いているのでしょうか。私には、身勝手で虫のいい、見え透いた下手な言い訳として、源氏を、そして男一般を、笑っているように思われるのですが。》 


※ 昔、学生時代に見た仏映画『シベールの日曜日』が忘れられません。ピエール(三十一歳)とフランソワーズ(十二歳)という男女(?)が、それぞれの孤独の心をお互いに美しく癒やし合う悲劇ですが、心に空洞を持つ若い男性がこういう天使のような少女に、ほとんど恋愛に近い感情を抱くのは、よくあることなのではないでしょうか。

そして実は、自分でそれに気付いているか否かは別にして、若い男性で心に空洞を持たないという人は、めったにいないのではないでしょうか。源氏も、ピエールも、(そしておこがましくもあえて言えば半世紀前の若かりし往年の私も)そうでした。

このごろ、同種のことから生じると思われる犯罪が絶えません。もちろん現実のかの加害者の自制心の乏しさは厳しく断罪すべきですが、犯罪者の根源的意識は、決して一般人と別世界のものではありません。それは、金貸しの老婆をなたで撃ち殺したラスコーリニコフとか、平和な家庭に自足していたレナール夫人の心を乱し、果ては短銃で撃ったジュリアンとかという犯罪者が、世界的名作の主人公たり得ていることからも分かります。
 それにしても、あの映画のラストはあまりに悲劇的でした…。 


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第四段 源氏、紫の君に心を慰める~その1

【現代語訳】1

 つくづくと物思いに沈んでいても、晴らしようのない気持ちがするので、いつものように、気晴らしには西の対にお渡りになる。
 無造作に鬢がそそけ乱れてうちとけた袿姿で、笛を気軽に吹き鳴らしながらお立ち寄りになると、女君は、先程の花が露に濡れたような感じで寄り臥していらっしゃる様子が、かわいらしく可憐である。愛嬌がこぼれるようで、お帰りになっていながら早くお渡り下さらないのが何となく恨めしかったので、いつもと違って、すねていらっしゃるのであろう、源氏が端の方に座って、
「こちらへ」とおっしゃるが、素知らぬ顔で、
「入りぬる磯の(お目にかかることが少なくて)」と口ずさんで、口を覆っていらっしゃる様子がたいそう色っぽくてかわいらしい。
「おや憎らしい。このようなことをおっしゃるようになりましたね。『みるめに飽く(しょっちゅう会っている)』のは、よくないことですよ」と言って、人を召して琴を取り寄せてお弾かせ申し上げなさる。
「箏の琴は、中の細緒が切れやすいのが厄介だね」と言って、平調に下げて調子をお整えになる。調子合わせの小曲だけ弾いて、押しやりなさると、いつまでもすねてもいられず、とてもかわいらしくお弾きになる。
 お小さいからだで、左手をさしのべて弦を揺らしなさる手つきがとてもかわいらしいので、愛しいとお思いになって、笛吹き鳴らしながらお教えになる。とても賢くて難しい調子などを、たった一度で習得なさる。何事につけても才長けたご気性を、思いが叶うとお思いになる。「保曽呂具世利」という曲目は、名前は嫌だが、素晴らしくちょっとお吹きになると、合わせて未熟だが拍子を間違えず上手のようである。

《葵の上、藤壺と語られてきて、ここは第二章第一段に対応して源氏と紫の君の場面です。

源氏は、本当は申し分のない女性だと承知していながら、うち解けることのできない葵の上と、お互いに強く惹かれ合い許し合いながら、立場上決して晴れて結ばれることのできない藤壺という二人に、日ごろ屈託する思いを抱き続けているのですが、その彼にとってこの姫は、かけがえのない心遣りの相手です。

あの第二章第一段から半年以上の日数が過ぎたでしょうか、比べると、「女君」は、二条院の暮らしにも、源氏にもずいぶんなじんだ様子で、相変わらず幼い様子描かれてはいますが、何と言ってもその振る舞いには、すでにさまざまに「思い人」の趣があります。

以前は源氏の夜のお出かけには「お後を慕いなさる時など」があり、また「とてもひどく塞ぎ込んだりなさる」といった具合だったのですが、このごろでは、すねてみせたり、色っぽい品を作ったりと、すっかり「女君」の風情です。『評釈』が「愛嬌がこぼれるようだ(原文・愛嬌こぼるるやうにて)」はこれまで、源氏にしか使われなかった言葉だと指摘しています。

「『入りぬる磯の』と口ずさんで、口を覆っていらっしゃる」などは、到底十歳そこそこの少女とは思われず、作者が何か間違ったのではないかと思われるほどです。

そして、前は「ありとあらゆるお稽古事をお教え申し上げなさる」とあったのですが、ここではそれだけではなく、源氏がふと吹いた笛にも即興で合わせるほどに、既に自立した琴のセンスも示し、それなりの技量も身につけているようです。

それでいてしかも、「お小さいからだで、左手をさしのべて弦を揺らしなさる手つき」などは、子供々々して「とてもかわいらしい」のです。

 源氏は先の二人の女性との憂いをすっかり忘れて、「思いが叶うとお思いになる」のでした。》


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第三段 藤壺、皇子を伴って四月に宮中に戻る~その2

【現代語訳】2

 ご自邸でお臥せりになって、胸のどうにもならない悩みを収めてから大殿へ出向こう、とお思いになる。お庭先の前栽が、どことなく青々と見渡される中に、常夏の花が色美しく咲き出しているのを折らせなさって、命婦の君のもとにこまごまとお書きになるようだ。
「 よそへつつ見るに心はなぐさまで露けさまさるなでしこの花

(若宮に思いよそえて見ても、気持ちは慰まず、涙を催させる撫子の花であるよ)
 『花と咲かなむ』と存じておりましたが、むなしい二人の仲でしたので」とある。

ちょうど人のいない時であったのであろうか、御覧に入れて、
「ほんの一言ほどでも、この花びらに」と申し上げると、ご自身ももの悲しい思いでいらっしゃる折りのことで、
「 袖濡るる露のゆかりと思ふにもなほ疎まれぬやまとなでしこ

(袖を濡らしている方の縁と思うにつけても、やはり疎むことのできない大和撫子です)」

とだけ、かすかに中途で書き止めたような歌を、命婦は喜びながら差し上げたので、「いつものことで、返事はあるまい」と、力なくぼんやりと臥せっていらっしゃったところに、胸をときめかして、たいそう嬉しいので、涙がこぼれた。

 

《こういう時でも大殿(葵の上のところ)に行こうと考えるあたり、ずいぶんまじめな人だという気がしますが、実は『源氏物語の結婚』によれば「平安時代も、特別の事情がなければ、正式な婚姻を経た夫婦は同居するのが普通だった」のだそうで、そうだとすれば自然なことです。しかし、源氏としては、それなりの気持ちの整理をしなければ、とても行く(帰る)気にはなりません。

そこで藤壺との文の贈答ですが、諸説ある部分のようです。

源氏の歌の後の言葉の原文は「花に咲かなむと思ひたまへしも、かひなき世にはべりければ。」です。咲いてほしいのは撫子であり、若宮です。そこで、『評釈』のように、若宮が花と咲けば、つまり成長されれば、あなたとまた逢うことが出来るような気がしていましたが、お生まれになってみても、あなたとの間がどうなるでもなく、むなしい仲であることです、といった意味に考えるのが分かりやすいようですが、どうでしょうか。

藤壺の歌の「なほ疎まれぬ」の「ぬ」を、完了とする説もあるようですが、ここも『評釈』にならって、打ち消しに取っています。「疎むことのできない」には、若宮(撫子の花)を自分の罪の子として疎む気持ちがまずあって、その上で、それでもあなたの涙の「ゆかり」と思えば疎みきることができない、という意味になります。浄瑠璃の一場面を思わせるような、母としてのやりきれない苦衷を詠んだ歌で、傷ましい気がします。》


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第三段 藤壺、皇子を伴って四月に宮中に戻る~その1



【現代語訳】1

 若宮は四月に参内なさる。日数の割には大きく成長なさっていて、だんだん寝返りなどをお打ちになる。帝は、あきれるくらい間違いようもないお顔つきを、お考えも及ばないことなので、「他に類のない美しい人どうしというのは、なるほど似通っていらっしゃるものだ」と、お思いあそばすのであった。たいそう大切にお慈しみになること、この上もない。源氏の君を、限りなくかわいい人と愛していらっしゃりながら、世間の人々がご賛成申し上げそうになかったことによって、東宮にお据え申し上げられなくなったことを、どこまでも残念にお思いで、臣下としてもったいないお姿、容貌に成人していらっしゃるのを御覧になるにつけ、心苦しくおぼし召されているところで、「こういう尊い身分の御腹に、同じように美しくお生まれになったのだから、疵のない玉だ」とお思いになって大切になさるので、宮は何につけても心の晴れる時もなく、不安な思いをしていらっしゃる。
 いつものように、中将の君(源氏)がこちらで管弦のお遊びをなさっていると、若宮をお抱き申し上げあそばされて部屋からお出になって、
「御子たちは大勢いるが、そなただけをこういう小さい時から明け暮れ見てきた。それゆえその頃が思い出されるのだろうか。とてもよく似て見える。幼いうちは皆このように見えるのであろうか」と言って、たいそうかわいらしいとお思い申し上げあそばされている。
 中将の君は顔色が変っていく心地がして、恐ろしくもかたじけなくも嬉しくもあわれにも、あちこちと揺れ動く思いで、涙が落ちてしまいそうである。お声を上げたりしてにこにこしていらっしゃるのが、とても不吉なほどにかわいらしいので、自分ながらこの宮に似ているなら大変に大切な者なのだとお思いになるとは、いい気なものである。

宮は、どうにもいたたまれない心地がして、冷汗をお流しになっているのであった。中将は、若宮を見てかえって思いがかき乱れるようなので、退出なさった。

《この節の前半は、この巻の冒頭、十月の試楽の夜、帝が藤壺にその日の源氏の素晴らしさを、二人のことを知らないままに語った、第一章第一段の場面を思い出させます。

ここでも何もご存じない帝は、藤壺の御殿で、若宮の源氏に似てかわいらしいことを手放しで喜んでおりられ、また参内した源氏にその気持ちを実に素直に語りかけます。

それを藤壺は身を切られるような思いで聞いています。

十月のあの時の藤壺の不安と苦悩は、半年後の今、具体的に若宮という存在を得てもはや抜き差しならない危うい事態を迎えているように彼女には思えて、間もなく終わるこの巻の首尾を整えています。

帝は、源氏の母が更衣という低い身分であったためにトラブルが起こったのに比べて、この子は歴とした出自の女御の子で安心してかわいがることができるのを喜びながら、その若宮が源氏と瓜二つであることに気づかれて、さすがにどうやらひとりでいろいろなことをお考えになったようです。

そして、まさか自分の息子がこの子の父親であるなどとは夢にも思わないままに、自分なりに理屈を付けて納得しておられるようで、読者は、なるほどこう考えれば不審は抱かれないだろうと了解し、また同時に、おおらかな人柄の好さを感じることになります。

帝の言葉を聞く源氏の気持は複雑でたいへんです。「恐ろしくも」は露見への不安、「かたじけなくも」は帝への申し訳なさ、「嬉しくも」はわが子に会えた喜び、「あわれにも」は父親と名乗れない悲しさ、とでも言えましょうか。そういうさまざまな思いが胸中を一時に駆けめぐり、顔色は赤くなり青くなり、思いが溢れてはち切れそうになって、ただ涙が流れるばかり、というわけです。

ところで、「いつものように、中将の君(源氏)がこちらで管弦のお遊びをなさっている」というのはちょっと驚きです。

「こちら」については、諸注いずれも藤壺の御殿としていて、藤壺の宮の気持を語ったのに続いての話ですから、それも妥当だと思われますが、彼女はあれほど源氏を避けていたのにと、私には不思議な気がします。

彼は宮中では桐壺に部屋を貰っていたのですから、藤壺が近づかせてくれない参内の折はそこに行きそうなものです。

あるいは帝に呼ばれたのでしょうか。そして、会えないこの頃、そういう時はいつも所在なく管弦で気晴らしをしていた、というようなことなのでしょうか。》

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